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ごった煮

4投稿準備:2005/12/31(土) 20:04:11
(人的存在応報)

そうした言説生産の中核を成す、理論的指導書とは何なのかということです。
思想書の膨大さは(哲学書でもそうでしょうが)、個別具体の経緯の量ということになってくるでしょう。
とりわけ哲学の場合、個別具体への言及を通して、そこに共通する原理を浮かび上がらせるというのが、手法でしょう。
ここでいうところの思想の場合は、原理を使って個別具体に対処していくリアル面、
その、枝葉の実用性がマニュアル的に意義をもたせようとしているのかもしれません。
宗教書でも経緯が延々と述べられ、それは教義の寓話というよりも、魅惑的な内実そのものの形成層であるかもしれませんね。
すると、それは神秘的な装飾や芸術へと刺激や霊感を与え、その肥厚が、さらに外郭の演出や、確固たる量的実在感を醸し、
もともとは何も無いところに肉が巻いて実体化するはずなのです。
思想史そのものが系譜でしかないでしょうが、これは思想の形式ですね。
宗教は、顔と体温を立て(人型の偶像と動き・営みを活写し、少なくとも頭に描かせ)、系譜そのものが内容となるでしょう。
「未だに」の、血の世界での存在理由たる由緒の系統図であり、また血が沸く流血の厚みから、
民族憎悪や、体験した喜怒、情趣の充実をもたらされるのではないでしょうか。そしてそこには量的存在応報がともなうことでしょう。
哲学と思想と宗教の分離分割には難しいものがあるでしょうが、ここでは哲学のようにして応用する原理を教える、というのでなくして、
宗教・思想では応用そのものを教えていく、というくらいの意味で、です。
しかし対象との、そういう関わり方では、主体的な個別判断とは違い、対象の個別具体の
洪水に溺れてしまっては「主体性」が矮小化(減耗、圧縮)されるということにもなりかねませんね。


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