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今上陛下の祭祀欠席について

8ぶらでぃ:2019/04/21(日) 03:10:14
礼重視の儒教系やその類の文化思潮の整理に向け、簡単な参考。

■日本の儒教:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%84%92%E6%95%99
>日本への伝来
日本へ儒教が伝わったのは仏教よりも早く、継体天皇の時代の513年、
百済より五経博士が渡日して以降のことである。さらにはこれ以前にも、
王仁(わに)が『論語』を持って渡来したという伝承が『古事記』などにあり、
概ね5世紀頃には伝来していたものと考えられている。
儒教の思想は多神教を奉祀する神道と相入れやすかったと考えられ、
儒教よりもさらに以前(4世紀頃とされる)に入ってきていた道教、
儒教と同時期に入った陰陽五行思想を併せ、それまでの呪術的な側面に科学的な論拠を与えて
後の陰陽道につながる素地が生まれていた。

>飛鳥時代 - 平安時代
飛鳥時代では仏教の普及に熱心であった蘇我氏の台頭もあり、
飛鳥京を中心に仏教遺構が数多く建造された。
だが、乙巳の変以降の皇室、特に斉明天皇は儒教に深く帰依したと考えられ、
亡夫である舒明天皇の御陵を八角墳としたり、多武峰に置いた両槻宮とその関連遺構
(酒船石遺跡、飛鳥水落遺跡、狂心の渠など)には儒教と陰陽道の影響が強く顕れている。

その後の平安時代初期においては天武天皇が発布した律令制にも儒教の影響が見られ、
儒教の思想は官吏養成に応用され、また国家で研究を行う学問として式部省の被官の大学寮において
明経道として教授された。
しかしながら、日本では科挙制度が取り入れられなかったためか儒教本来の価値が定着せず、
学問の主体は、実学的な文章道と、道経色が強い陰陽道に移った。
やがて神仏習合が進んで救済に加えて鎮守の意味も獲得した仏教が隆盛となり、
空海の『三教指帰』による道教批判などもあって、衰退していった。

9ぶらでぃ:2019/04/21(日) 04:02:56
冠位・位階、その他、身分関係の根拠律が変転を遂げ、
身分制の大々的な瓦解の後、

礼儀の名のもと、
・年齢制
・先輩・後輩制
・家柄、親などの影響
と言った偶発要素と、
・実績制
・能力制
と言った結果、
・上記二要素を併せ持ち得る派閥制(学閥制など)
・縁故、仲間関係
・恩義関係
と言った複合要素など
に基づいて、上下関係や、距離関係が決まる。

教導関係においては、
指導する、指導される上での上下関係はあれども、
実存的な上下関係は無い。

恩恵関係においても、
その恩に対する何らかの関係性は発生し得るが、
全般的な上下関係を必ずしも規定する訳ではない。

偶発的な要素に対する「敬意」も、
それは、過剰なものではなく、
異なる意味の相互敬意を下地としている。

無難な意味では敬遠や、敬意ある仮定。
実質を掘り起こせば、相互的であるべきもの。
80代が30代より偉い訳では当然無い。
年齢による一般的な苦労と知恵を考慮に入れた上での敬意を高年齢層に捧げ、
今後社会の挑戦を担う若年層に対して、高齢者は敬意を表す。

ぎりぎりの本質から始め、
礼儀を再構築。

提案としては、デフォルトが距離語と言う敬語。
未成年と成年以外の区別は基本ない。
後は、親しみに合わせて、距離語は緩和される。

敬語における代名詞と呼称の問題も、
抜本的に見直す。


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