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2世の退会---分析・方法・実際---
62
:
ひゃっきまる
:2005/12/29(木) 04:00:16
とりあえず今夜が今年最後の書き込みとなると思います。
わめさんのサイトを見ていて常々思っていた疑問を思い出したので書きます。
創価学会を信仰していた人間で、教義の問題点(唯一性は現代では通じないことなど)を知ったとき、そこからどう反応するかは人によって非常に様々だということを、リアルやネットでの議論を通じて知りました。
僕の場合は、信仰が間違いであったのか、と悩み、退会を希望するまでに至っています。しかし別の人は、現代仏教学の話をはじめから信用しない、聞き入れない態度をとります。またある人は、教義上の問題は創価学会の正しさとは無縁であると論じます。
このような違いはどのような条件の違いから生じるのでしょうか?
63
:
ひゃっきまる
:2005/12/29(木) 04:01:45
僕の場合、子供の頃から信仰には様々な疑問がはじめから存在しており、その疑問を解明したいと思っていました。具体的には、なぜ言葉を唱えることによって功徳があるのか(言葉は人間が恣意的に決めるものであるのに、特定の言葉にのみ特別な力があるのはなぜなのか)、なぜ釈尊は正直捨方便と明確に言ったのに様々な宗派が現代まで存続しているのか(創価学会の言うように日蓮仏法の正しさが自明なのならば、他の宗派が生き延びているのはおかしい)、法華経に展開される話は超常的スケールで描かれるが釈尊が歴史的事実として法華経を説いたのならばそれは現実にはどのように説いたのか、などです。
その他(教義に限らず)様々な言葉にできない不整合、矛盾を感じており、それらを無謬に信じなければならない、という精神的プレッシャーに心が悲鳴をあげている状態だったと言えます。だから、「教義が間違っている」という話を聞いたとき、それは「信仰が正しい」と思いたい気持ちとしては苦痛でありましたが、一方の心にとってはまさに福音でありました。
そして現代仏教学を学べば学ぶほど、かつてあった無数の疑問は薄氷が溶けるようにすみやかに解消され、理性においては一切の混乱はなくなりました。このことはまさに僕が幼少時代から望んでいたことです。
僕の中に創価学会はおかしい、という気持ちがもともと内在的にあり、現代仏教学を知る前にすでに葛藤状態があったからこそ、信仰を否定するという非常に苦痛な作業もできたのではないかと考えています。
64
:
ひゃっきまる
:2005/12/29(木) 04:02:50
しかし、全ての人間が僕のような疑問を持つかどうかというと、そうではないのかも知れません。
僕が幼馴染の学会員に、
「僕らはお経やお題目を唱えるけども、なぜそれで功徳があるのか不思議だ。宇宙人にとっての南無妙法蓮華経に相当する言葉はあるのだろうか。言葉というのは人間が恣意的に定義したものだ。もし本当に特定の言葉に効力があるとするならば、本来はインドの言葉や中国語の発音で読まなければならないはずではないか。でも日本語の読み方でいいというのは、言葉に恣意性を認めているということだ」
というような話をしたことがありました(実際はもっと素朴な問い方だったと思います)。
「そんなことは今の今まで考えたこともなかった」
即答でした。僕はこの言葉に当時ものすごいショックを受けたのです。この種の疑問をどう解釈するかはいろいろあるとしても、現代人が疑問にすら思わない、なんてことがありうるのだろうか、と思いました。
65
:
ひゃっきまる
:2005/12/29(木) 04:03:22
このようなことを通じて、僕は、「人間にはおそらくいろいろなタイプの人間がいて、僕は創価学会に合わないタイプの人間なのだ」と思うことにしました。またこう思うことによって、今創価学会にいて信仰を続けている人を、僕の主観で単純に「間違った人」と思うことも禁止しようとしたのです。僕は僕で創価学会をやめることは正しいし、創価学会に居続ける人も正しいのだ、と思いたかったのです。それは単なる適性の問題だと。
しかしわめさんは、僕とは違って非常に強い信仰を長い期間貫いておられて、しかも信仰に対する疑問ももともと持っていなかった人と思います。そういう方が素直に現代仏教学の知見を受け入れたということが少し不思議に思えました。
一方、ネットでもリアルでも、いくら説明しても全く現代仏教学の知見を受け入れようとしない、もしくは受け入れても創価学会が正しいと言い張る人もたくさんいるようです。
いったいどのような条件の違いで、このような違いが起こるのでしょうか。また、創価学会が正しいと思っている人は、本当に本心から創価学会が正しいと思っているのでしょうか。それともそう思う気持ちを抑圧しているに過ぎないのでしょうか。
66
:
ひゃっきまる
:2005/12/29(木) 04:05:36
>(´・ω・`)ショボーン ってもうすぐお正月だもんね。(^^;
> 良い年末年始をお迎えください。(*゜▽゜*)
ありがとうございます。よいお年を〜。
67
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/12/29(木) 05:12:27
ひゃっきまるさん、こんばんは。^^ もう今晩のアルコール限界量まで飲んでのわめのコメントですのでいい加減に読むか、スルーしてくださいね。
> 僕の場合は、信仰が間違いであったのか、と悩み、退会を希望するまでに至っています。しかし別の人は、現代仏教学の話をはじめから信用しない、聞き入れない態度をとります。またある人は、教義上の問題は創価学会の正しさとは無縁であると論じます。
多くの方は自分に落とし込んだ形の教義の信仰心、つまりは自己中の信仰であっていいか悪いかはともかく原理主義ではないもしかしたら世界に一つしかないオリジナルな信仰をしているのじゃないかと感じたりしています。
『教条主義はファシズム?』
http://wame.seesaa.net/article/9440778.html
> 「そんなことは今の今まで考えたこともなかった」
> 即答でした。僕はこの言葉に当時ものすごいショックを受けたのです。この種の疑問をどう解釈するかはいろいろあるとしても、現代人が疑問にすら思わない、なんてことがありうるのだろうか、と思いました。
やはりここでも自分に落とし込んだ形の教義の信仰なのだと思います。これは体験重視でもあるわけで言わば主観的思考の成せる業だと思います。つまりは客観性などは文字通り客観的で自身に当て嵌める必要などないと言えばないわけでわめ的には関係性無視、ご利益主義で自身に利益があると思えればそれでいいと言った思考なのではないでしょうか。これは批判ではなく成熟した大人の考え方であると思うし綺麗ごとじゃない大人の生の人間としての思考だと思います。これを批判するならこのような方が愚癡をこぼすか否かに掛かってくるわけで、このような思考を持つ方で愚癡をこぼさない(自己の立場に不平を持たない)方にはわめの理論など歯が立ちません。涙
人間は複雑でいろんな考え方の方がおられると思います。だからわめなど理解の及ぶはずもなく計り知れないことなのですが、でもそれをポジション、単純に立場を自己に置くものか、他者への思いやり重視の立場か、わめのようにどこにも立場を置かない関係性重視の立場かの三つのいずれかには分類できるのではないかと考えています。その中でわめなりに思うことは立場を自己に置くものが大多数で、それは千差万別でありどうしようもなくその一つのサンプルを取り上げたとしても取り上げるサンプルごとに異質な”それ”であり共通性は自己の立場そのもの以外に導き出すことが未だにわめにはできません。これは不思議なことに他者への思いやり重視の立場の方達にも同じことが言えると感じているのですが、結局他者への思いやり重視の立場の多くは自己中の立場からの理想像に過ぎずこの両思考とも自己中であり人ぞれぞれ千差万別なのじゃないかと感じている次第です。わめの言う関係性重視の立場というのは、自己をどこにも置き所がない立場というのか、自己にも他者にも置けない心の様を仕方ないから関係性に置くか(客観的立場?)なんてどうしようもない身の置き所として勝手に思う”関係性の立場”なのですが、まぁそれはひゃっきまるさんの求める答えではないと思いますのでこの辺にして、自身以外の考え方を理解しようがないとしても現実を見た場合に”ある”わけですから疑問であっても認めざるを得ないし、考え方を変えれば或いは答えを知ってしまえば興味も好奇心も悩みも消えてしまって、悟りきったつもりになって非常に空しい人生になってしまうのではないかと思います。 最後になんとはなしにひゃっきまるさんのコメントから浮かんだLibra師匠の言明のリンクを添えさせていただきます。
『日蓮は広略を捨てて肝要を好む』
http://freett.com/Libra0000/z002.html
『題目は呪文ではない』
http://freett.com/Libra0000/z024.html
『題目論メモ』
http://freett.com/Libra0000/z019.html
68
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/12/29(木) 05:25:22
ひゃっきまるさん、酔うとHNの如くわけわかめになるわめです。(>▽<;; アセアセ
酔っ払ったついでにわめの決めセリフも言わせてくださいw
人それぞれバラバラが( ・∀・)イイ!
なんだかわめは意味も分からずこんなことをよく言っているのですが、題目にも負けないほどのご利益(笑)あるかもと思っています。
来年もよろしくです。m(_ _"m)ペコリ
69
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/29(木) 08:03:15
いや、ひゃっきまるさんちょっと待った。(汗)
今、先のレスで話した長文を書いてたとこなんだけど(今夜には間に合うかな?)、
ひゃっきまるさんの言ってる事は(文意がよく読み取れないけど、多分わめさんのご意見も)一種の言葉遊びに繋がる戯論だと思うよ。
単なる分類でしょ?それは。
わめさんもそうだよ。人をたった三種類に分類しておいて、みんなバラバラが良いもないもんだ。
血液型じゃないんだからさ。血液型がなんで便利かと言うと、他人をカテゴリー分けする事で、他人をほんとうに理解する手間を省けるからだよ。
体験を比べて分類するのは、それと同じだと思うよ。当たってる気はするかもだけど、血液型だって当たってる気はするもんだよ。
ひゃっきまるさんのそれって、とにかく「分かりたい」からじゃない?
けどねぇ、他人をひっくるめて「分かりたい」と思う事自体、傲慢な願いだと思う。
緻密に見えて見当外れ、そんな方向に必ず向かいますよ。
創価学会員だからって、みんな同じじゃないのは当たり前でしょ。
二人とも、言葉や理屈ではそう言ってるのに、いざ自分と違う考えや感じ方に出会うと、何でそんなに驚くのさ。
そうやって驚く事自体、学会員ならみんな同じというか、自分の感じ方の普遍性に疑問持ってなかった証拠に見える。
その枠から外れた人を、カテゴリーというゴミ箱に捨てる、あるいは捨てようとしてるだけじゃないのかな?
自分が腑に落ちるために。判らないまでも、判った気になるために。
>一方、ネットでもリアルでも、いくら説明しても全く現代仏教学の知見を受け入れようとしない、
>もしくは受け入れても創価学会が正しいと言い張る人もたくさんいるようです。
そんなの、学者でも幾等でもいるじゃない。理系文系問わず。このスレで名前出したポパーもそうだし、
生体調節に関する神経対ホルモンの論争の時の、グロスマンを始めとする神経万能派の態度もそうだし。
実例は山ほどある。みんな端から見れば、アンタ何でそんなに意地になるのさ、としか思えないよ。
掃いて捨てるほど、世の中にはありふれた事だと思うなぁ。
70
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/29(木) 08:04:52
第一、宗教を理屈や知識で信仰しない人は、何も創価学会じゃなくても沢山居るよ。私もそうだもん。論理や知識なんて無い。
それに、創価学会が苦痛になる事を、適性で割り切るのもどうかと思う。
ひゃっきまるさんは、未活動は苦にならないって言うけど、未活動さえ周りが認めない場合は現実にあるんだよ?
私がそれに突っ込まず、何も言わなかったのは、あくまで「ひゃっきまるさんの場合」として、あなた個人の話を聞いてたからで、
タイプだの適性だの言うならさ、未活動が認められてるならあまり深刻な事例じゃありませんね、なんて言い方も出来る。
けど、それで自分はまだマシだって判って、自分より酷い事例を知って、それでひゃっきまるさんの悩みがどう解決するのさ?
酷い事例だと判断された人だって、そんな比較の同情なんて真っ平だと思うしね。
人と比べてマシだろうがそうじゃなかろうが、ひゃっきまるさんは心底悩んでるんでしょ?
だから、私もそれを条件で分類したりはしないんです。それはあなたに失礼だから。
条件で分類するなら、教義上の整理もついてて未活動で問題ないなら、悩むことありませんねって言うよ。
でも、ひゃっきまるさんをそう分類して、判った気になって安心出来るのは私だけ。ひゃっきまるさん自身の悩みには、関係ないよね。
だから、ひゃっきまるさんがそうした事をあれこれ考えても、それで何らかの結論に至って腑に落ちるのは、単なるひゃっきまるさんの安心です。
他人は他人。まずは自分のことを判らないと、ある程度自分に近ければともかく、ほんとうに自分とかけはなれた他人を判るのは不可能だと思います。
71
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/29(木) 08:47:26
読み違いが一ヶ所あったので補足。
>>65
で仰ってるのは、そう思う事でご自分を納得させようとなさったという事ですね。
とすると、この点は指摘されるまでもなく、ひゃっきまるさんがご自身で分かっておられる事を述べてしまいました。誠に申し訳ないです。m(_ _)m
72
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/12/29(木) 13:22:23
春田の蛙さん、こんにちは。^^
> けどねぇ、他人をひっくるめて「分かりたい」と思う事自体、傲慢な願いだと思う。
わめはそうは思わないです・・・ 分かりたい、理解し合いたいと思うことは決して傲慢な願いではないと思います。また他者を理解しようとするためのカテゴリー分けも”人それぞれみんな違う”から必要にもなると思うし、例えば世の中には重い罪を犯す人がいる、犯さない人もいる、被害に遭う方もいる。このようなこともカテゴリー分けだと思うけど、このような腹積りを持ってないと自分がその時々に遭遇しどう対処していいか混乱を起こすような気がします。
ただこれは概念としてであって、自身が他者に向き合った時に、その人はその人以外の何ものでもなくそれをカテゴリーで分類した人間に当て嵌めることは馬鹿げていると思いますし、春田の蛙さんの言われる傲慢でもあるようにも思います。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1118979037/292
ひゃっきまるさんの「分かりたい」という気持ちは自身の安心を求める気持ちじゃなくて、言葉としての表現は難しくてまたわめの主観ですので適切ではないかもしれませんが、春田の蛙さんがこのサイトを何のために運営されているのかといったことと、わめからはよく似た印象を持ってしまいます。
失礼しました。
73
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/29(木) 21:07:58
さて…先のレスで予告させて頂いた「信仰と反信仰(仮題)」についてなのですが、予想通りやたらに長くなってしまいました。(汗)
はっきり言って、こんなモン読み飛ばして下さって構いません。
書き上げてみて、我ながらアホじゃないか?最後まで読んでくれる人居るんかいな、と思いますから。(笑)
では、打ってる内に携帯のボタンの塗装が剥げてきたw駄文の開始です。
まず最初に、以下のふたつの主張を考えてみて下さい。
ふたつの主張は、互いに矛盾する事を述べています。
1.痴漢として訴えられる男性に、無実の男性は居ない。
2.痴漢として訴えられる男性は、全員冤罪である。
1が正しければ2は間違い、2が正しければ1は間違いですね。
そこで、正しい意見はどちらかを選んで下さい。
そんなどっちも間違ってて選べない、そう思われるかもしれませんね。
1が間違いというなら、あなたは痴漢被害に遭われた方を疑う事になる。
2が間違いというなら、あなたは冤罪被害がどれほど当事者にとって重いか、分かっていない…。
いや、ほんとうに最低なのは、こうした喩えを用いる私ですが。ご不快に思われた方も居るでしょう。
けれども確かにこの文脈で、1と2それぞれの立場から、互いに攻撃は出来るのです。
そして、両方間違ってるという意見も――その根底に無関心ゆえの無理解があるのなら。
宗教の話をしてるんじゃないんですよ、実は。念頭にあったのは、ひゃっきまるさんが他スレで関心を持たれた、記憶に関する研究と、それへの批判です。
ひゃっきまるさんの、↓の考察を進めていくのなら、記憶の確かさについて考えるのは避けられませんね。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5753/1110729302/135
もし、記憶が他からの操作で変更し得るものならば、それが主体をつむいでいると考えるのは、主体自体をあやふやなものと捉えるのと同義です。つまり、↑の定義を覆せる訳です。
結論から申し上げるなら、記憶研究から得られている様々な結果は、記憶が決してテープやビデオのような記録ではない事を示しています。
この点について詳しい事例を紹介するのは、↑の該当スレに譲りますが(しばらくレスは待ってて下さいね、ひゃっきまるさん)、
しかしこうした研究は、必然的に次のような批判を生み出します。オマエは被害者の話を疑うのか?と
74
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/29(木) 21:08:45
被害者の話を疑う訳ではないんです。けれども実際に犯罪として裁くならば、被害の重さも冤罪被害の重さも等しく考えなければならない。その問題に、記憶の確かさの研究は有益です。
当然この原則論は、最も救われるべき『心情』の問題からは遠くなる。
傷ついた心が癒えてこそ、その傷から遠ざかってこそ、原則論の大切さにも理解を示せるようになるのですから。
さて、ここまで読んできて「蛙さんの議論は何かおかしい…」と思いませんか?
だってね、私が述べてるのは全て『被害者』『冤罪被害者』という分類、カテゴリーじゃないですか。
つまり、これらは物差しであって、個々の『生きた人間』じゃない。
思うのですよ。こうした物差しが、ある特定の『その人』と話すのに、どれほど意味があるのか?と。
しかし実際には、物差しが特定の人と親しくなるのに『役に立つ』。その代償に、特定の人との縁を『物差しが阻害』します。
いつしか…先に示した1、2のような極論に流されて、敵対と引き換えの哀しい団結を求めるようになる。
ある心理療法に関わる分野では、実際にそんな対立が起きています。子供への性的虐待をめぐる問題です。
不幸にして被害者となった子供も、不幸にして冤罪被害者となった親も、言い尽くせぬほどに傷付きます。
最初から、そんな極論に染まる訳ではないんです。最初は被害者を助けたい、それだけの純粋な気持ちです。
でもだからこそ、『冤罪もある』という、被害者を傷付ける指摘が許せない。
そして、冤罪被害を救うには、先に述べたような研究が有益になります。研究者は、大抵被害者をも傷付けないよう配慮しますが、
こうした報告を、全ての被害者がまるで嘘つきであるかの如く誘導するのに利用する、心ない人も確かに居ます。
被害者側に立つ人は、そうした心ない態度に苛立って、もはや元々の記憶研究者もいっしょくたに感情的な批判をします。
こうした対立の果てに極論的心情も生まれ、対立の結果だけを見た第三者は、詳しい過程の判らないまま判断します。どっちもどっちだ、と。
75
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/29(木) 21:09:43
悲劇の根底にあるのは、個々の被害や冤罪の一般化、つまりそうした事に対する態度のイデオロギー化だと思います。
それは実は、翻って個々の被害者個人をも苦しめます。イデオロギーはいかなるものであれ、忠誠心を求めるからです(反独断主義のイデオロギーでも例外ではありません)。
つまり、そのイデオロギーにどれだけ近いかで、優劣が測られます。この場合なら被害の程度によって、示される同情に濃淡が生まれる。
少なくとも、そう受けとめて被害の程度を競う傾向や、自分の被害はまだまだと遠慮する被害者は生むでしょう。
以後の話の方がさらに長いので(汗)、ここまでの話はかなり具体的説明を省いて述べてきましたが、
述べている事が特定の宗教や信仰の問題などではない事は、お分かりになれるでしょう。
そんな事は一言も述べてません。あえて言うならこれは、むしろ社会問題に関わる時に、私たちが陥りがちな態度を示す一般論です。
では私たちが、こうした価値観に関わる時にありがちな、もうひとつの罠についても述べてみましょう。
まずは、以下のリンク先をご覧下さい。
http://www.plinst.jp/musouan/yamada00.html
http://www.zazen.or.jp/mumontop.htm
これは、臨済宗最大宗派の妙心寺派菅長を務められ、宗門立大学である花園大学の学長も務められた、山田無文氏についての紹介です。
丸山照雄氏の著書の紹介によれば、僧侶全般に対する批判の手厳しい作家の水上勉氏が、ひとり山田無文氏にだけは一目おく、そういう人物だそうです。
> 今ではほとんどの僧侶が妻帯してしまったが、その中で山田無文は“独身”を続けている。
> 本人の弁によれば、若い頃、肺結核を患ったことから、結婚する機会を失したのだという。
> あらためて固い決意をなして、独り身を通したのではないと説明する。
> そこがまた円熟した人柄を思わせるのである。
> 教条的な決意などでなく、“自然(じねん)”にそうなっていったのだ、といいたいのだろう。
> まことに仏教というものは、そのようにして身についていかねばならないものである。
> 山田無文を水上勉が信頼するのは、そうした熟成したものを見ているからであろう。
丸山照雄「日本人の心をダメにした名僧・悪僧・愚僧」山手書房
76
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/29(木) 21:21:40
この丸山照雄氏の著作、本のタイトルはあれだし、中身の章見出しなんかは、さらにどうかと思うもんが並んでますが、
書かれている分析自体は、非常によく練られ、思想や信仰におもねらず冷徹に歴史や実態を踏まえた記述がなされています。
つまるところ、↓のコメント欄でわめさんが述べておられる神道についての批判を、
http://wame.seesaa.net/article/10650360.html
伝統仏教全般について行っているのがこの本です。
書かれている事は事実ですから、腹を立てても仕方ないし、それでは批判に腹を立てる創価学会員を笑えません。
とは言え、こうした名僧と呼ばれる方の仏教啓蒙書を手にとる事で、それこそ闘病の死の淵からの救いとなった方はおられる。
今回の論孝では、ひとり山田無文氏を言わばあげつらっていますが、だからと言って氏を尊崇なさる方に、無理にこの見解を押し付ける必要はないし、それはある種の折伏と同じ迷惑だと思います。
さて、紹介した山田無文氏ですが、禅文化研究所から出された「般若心経」という本で、こんな事を述べておられます。
(続日本紀の光仁天皇宝亀五年四月の勅令について)
> 其れ摩訶般若波羅蜜は諸仏の母なり。天子之れを念ずれば、則ち兵革災害、
> 国中に入らず。庶人之れを念ずれば、則ち疾疫癘鬼家内に入らず。
> よその国に侵略に行かずに、また外国が攻めてきやしないかとうろたえて再軍備をしたり自衛軍を作らずに、
> 国中が、ほんとうに平和論者になって、皆がその般若の心で生きて行くならば、
> 攻めてこようが、国の中に入りようがない、ということでありましょう。
山田無文「般若心経」禅文化研究所
どうでしょう。なるほど、これこそ真の平和論と、我が意を得た心地になる方もいるでしょう。
そんな理想論で国防が果たせるか、と苦々しく思われる方もおいでかもしれない。
ではこうした理想論を述べる人は、さて次のような右翼のプロパガンダには、何と言って反論するのでしょうね。
> 日本は自らを滅ぼして、しかも立派にアジアの国々を独立させました。まさに聖戦の名に恥じない成果であったと思います。
> これらはすべて忠勇無双なりしわが二百五十万の英霊諸士の功績に外なりません。
77
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/29(木) 21:22:12
【続き】
> 独立出来たアジアの諸民族は永久にその勲功をたたえて止まんと思います。
> (中略)靖国神社を一宗教として(のみの立場に抑え込み)、国家護持に(対して
> 政教分離を唱え)反対する人達の宗教観を、私は疑うものであります。
> (中略)靖国神社が信者を増やすために、一ぺんでも布教したことがありますか。
> なるべく度々戦争をして、皆死になさい、祀ってあげますよ、などと軍国主義を主張したことが一度でもありますか。
いやはや…何というか。これは昭和50年代の靖国神社国営化の動きの際、賛成派が開いた大会で配布された文章です。
過去のこうした動きは、世の中がけして今日言われがちな、反戦左翼一色の状態ではなかった証左ですが、
どういう立場からこれを眺めるにせよ、これが前掲の山田無文氏の平和論とは、一線を各した主張であるのは、お分かり頂けるかと思います。
ちなみに、この文章の執筆者は、「靖国神社国家護持を思う――発起人山田無文」。
つまり、二つとも同一人物の筆になる文章です。
> 臨済禅にはどこか底の深い「自由」の精神があるのだろう。山田無文にそうした気概があるのだと、私は思っている。
> しかしその「自由」は、世俗世界でためされ、きたえられたものではない。野放図である。
> だから社会的には無定見のそしりを受けねばならぬこともある。山田無文は臨済禅の良さも悪さも体現しているといえるだろう。
↑この丸山照雄氏の見解は、少なくともこの二つの文章を見比べる限り、なるほど正しいと言わざるを得ないでしょう。
そして丸山氏が指摘されるように、戦前には戦争賛美のお先棒を担ぎ、戦後には無反省に反戦平和へおもねり、さらに戦前への懐古が盛り上がればそれへも手を貸す、
そんな動きがひとり山田無文氏や臨済禅に限らず、浄土真宗も含め伝統仏教の指導的立場に散見されたことであるのは事実です。
一体、仏教の主体的独立はいずこにあるのかと、首を傾げざるを得ません。
こうした観点から、宗教それ自体を嫌悪なさる方がいるのは、私は不当とは思えないのです。
78
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/29(木) 21:24:29
しかし、こうした嫌悪を「宗教」というカテゴリーに放り込んで、果たしてほんとうの理解に繋がるのでしょうか?
一見してお分かりかと思いますが、私が山田無文氏について採った論法は、
>>22
でカール・ポパーやトーマス・クーンを評したのと、同じ論法です。
述べている思想の緻密さ高潔さを、そのまま無批判に受け取らない態度とも言えるでしょう。
丸山照雄氏が各宗派の僧侶を評するのに用いた論法も同じ。
言うなれば、個々の言説を生身のその人から引きはがし、白紙にしてその是非を論じるのか、
言説と振る舞いを一体のものと捉え、その矛盾から生身のその人自身に迫ろうとするのかの違いで、ここでは後者の論法を用いている訳です。
ここまでで、先に被害と冤罪を例に述べた事と伝統仏教を例に述べた事の、創価学会問題の共通点を整理しておきます。
まず、その非常識な選挙活動から、事実の一般化を行い、「政治に深く関わるなど、もはや宗教団体ではない。政教分離はどうした!」と主張したとします。
この言説を、創価学会の選挙活動の実態という生身からはぎ取り、政治と宗教の関わりという観点から白紙に論ずれば、
ならば政治に関わり利用されてきた伝統宗教の歴史は?という反論が可能です。
現在は政教分離で…というなら、では公明党の存在と同じく、首相の靖国神社公式参拝にも反対ですねと言われたら? これにグ……と詰まる方は多いでしょう。
実態から巧みにズラす議論は、例えばこうした形でも使えます。池田大作氏への個人崇拝などない、創価学会の教えの中にそんなものはない、あったとしたら、それは間違った古い教えのことだ。
実態への批判に教義で返す。同じ論法を浄土真宗が用いたらどうなるでしょう?
本願寺門主への生き仏崇拝などない、真宗の教義に血縁崇拝などない、あったとしたら、それは間違った古い教えのことだ。
……教義に無くたって、現実に生き仏信仰はあるのですよ。
こうした議論は、次第に実態からは離れていきます。理路整然と反論は出来ないけど、でも何か違う、間違ってる…こうした心の悲鳴が、積み重なる事になる。
上記の例で言えば、最初から宗教論や政教分離が言いたかったのではないはずです。
まずは身の周りにある、創価学会の活動がもたらす様々な軋みを、それによって苦しめられた心の叫びを、何とか表したかったのではないでしょうか?
79
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/29(木) 21:25:00
政教分離という観点が、その叫びを受けとめてくれる。宗教は政治に関わるものではないという主張が、自分の苦しさを肯定してくれると感じたのではないかと思います。
そうした定義に、体験を一般化させる事で、人間は繋がりを感じて安堵を得られます。
それが、いつしか返って、創価学会問題のほんとうの苦しさ、深刻さを、宗教に関する議論に埋没させてしまう。
宗教に関する、創価学会を含めた現実の様々な団体の、実態を無視した観念的で教条的な極論へと、結び付いてしまうのだと思います。
生身の実態から引きはがした、白紙での論証では同列にも見える、創価学会と伝統宗教の政治への関わりも、現実には異質なものです。
例えば山田無文氏の場合、政治的策動が利用すべき権威は、氏個人に属すものです。
山田無文氏の個人的心情はどうあれ、妙心寺派に属する一般の壇家全体に協力を強いるものではないでしょう。
言ってみれば、伝統仏教の壇家が本山のどうこうに無関心でいられるのは、実際日常生活にあまり影響を感じない方が多数派だからだと思います。
というか、そんな事には関係なく、山田無文という高名な禅僧の名前にこそ、利用する価値があるのです。
では、創価学会の集票能力が無くても、創価学会の――例えば池田大作氏の名声(?)に利用価値があるかどうか。
比べるまでもなく、これは明らかだと思います。彼の権威を支えるのは、まぎれもなく個々の活動家が寄せる献身でしょう。
そして、だからこそ創価学会員から見れば、自らの存在がどうあろうが、それに関わりなく遠くに存在する伝統仏教の在り方は物足りなく思え、
自分たちの献身が、確かに組織を支えていると実感出来る創価学会の在り方に、言いしれない充実感を感じるのではないでしょうか?
つまり、外部から容易に指摘し得るその問題点ゆえに、返って内部にあって充実感を得ている者には麻薬的な魅力を生んでいる。
それが、単に欠点や問題点を指摘するだけでは話が通じない、様々な行き違いを生む理由でもあると思います。
(ここまでで前半終わり/汗。後半は校正が終わればUPしますが、読んでくれる人がいるんかなぁ…)
80
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/30(金) 04:47:33
さて、よく宗教問題の議論において指摘される事に、合理的立場というか、論理実証的な立場からの批判がありますね。
先にも紹介させて頂いたわめさんのブログのコメント欄で、
http://wame.seesaa.net/article/10650360.html
ひゃっきまるさんが、宗教について十把ひとからげに論じるのではなく、
具体的に宗教の『この部分』に問題を感じると述べる必要がある事、
その否定的な面だけを持って、宗教の全否定に結び付けるのは賛成出来ない事を述べておられます。
ひゃっきまるさんが具体的に挙げられている考察の内容も含めて、大変同意でした。
しかし、ひゃっきまるさんが無粋と仰る類の批判は(私も無粋だと思います)、今日の科学的世界観に対する、
かつての宗教的世界観に対してと変わらないような一種の信仰によって、かなり世の中に満ちてもいると思います。
以下のテキストでも少し触れたスーザン・ブラックモアについてですが、
http://kibounokaze.hp.infoseek.co.jp/cult1.html
その話題を2chで見掛けた折りにも、やはりそうした論調の批判に引用されていました。
ブラックモアは、リチャード・ドーキンスが唱えたミームの概念で、私たちの自我や文化が説明出来ると主張しています。
ミームとは、私たちの模倣によって伝達される、文化の単位のようなものです。
話し方のクセ、好みの歌、価値観や道徳……。
ブラックモアによれば、宗教とはこれらミームの巨大な複合体(ミーム・プレックス)であり、きわめて成功したチェーンメールと呼ぶべき代物で、
本物だから生き残ったのではなく、複製と感染力に勝れていたから生き残った、一種のウイルスだと言います。
自我もまた、他の人から貰ったミームで構成された、脈々と続く物語のようなものにすぎない。
それは永遠に流転するもので、自由意思や意識を持てるようなものではないと、それがブラックモアの見解です。
さて、以下で少し述べさせて頂いた事ですが、
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5753/1124638327/20-21
現代ではUFOも、一種の宗教として捉えられる傾向があります。
81
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/30(金) 04:48:31
トランスパーソナル心理学の泰斗で、現在のブッシュ大統領とかつて大統領戦を争ったアル・ゴアも、その著作を薦めた
ケン・ウィルバーは、かつてUFO信者に、多くの目撃証言が皆でっちあげだと思うかと詰め寄られ、こう答えたと言います。
「もちろん!」
> ……ウィルバーの専門は心理学であり、彼のような職業にある者に言わせれば、
> 人間というのは、実に簡単に、どんな馬鹿馬鹿しいことでも信じてしまう生き物だ、
> という結論になるのであろう。
> われわれはまだ、そこまで人間を見切る訓練が出来ていない。
> 人がそれほど熱心に信じ込んでいるものには、
> どこか真実の部分があるんじゃないだろうか、と、つい思ってしまう。
と学会・唐沢俊一「トンデモ本の世界S」太田出版
さて……こうした考えを如何思われますか?合理的?科学的?
実は、私にはどうもそうは思えないのです。
それについて述べさせて頂く前に、ひとつ私自身の信仰する浄土真宗について触れるのを許して下さい。
浄土真宗では、まじないは否定し霊魂も認めません。葬儀の際の清め塩も、迷信だと否定される。
一説には、民俗学者の柳田國男が浄土真宗を嫌っていたという説があって、理由は真宗の信仰篤い土地では、
土着の呪術的な風習などが消え失せてしまっていて、民俗学的には面白くないからだそうです。
真宗の祖・親鸞を語るとき、よく誇らしげに言われる事があります。
親鸞は、現代人でも難しい迷信の完全否定を成した、類まれな理性の持ち主だと。
私は「そうかいな?」と疑問なのです。真宗の教えが、特段に勝れているとも思えません。
日蓮宗や真言宗より合理的――それがどうしたと言うんでしょう。確かにまじないはやらないから、その分科学的世界観に近い。
けど、そう言いたいなら、阿弥陀如来や極楽浄土は迷信ではないのですか?
他宗より合理的だと誇る――その態度を五十歩百歩と呼ぶのです。合理性を誇りたければ、いっそ信仰も捨てて無神論になればよろしい。
無神論よりは非合理だけど、まじないやるよりは合理的――なんとみみっちい自慢だろうかと思います。
そもそも親鸞がスゴいったって、彼は阿弥陀如来を信じてたんでしょう? ひとつ神秘を信じてたから、
他の神秘は要らなかっただけじゃないんですかね。ちょうど創価学会員には、神社のお守りや他宗のご祈梼が要らないように。
82
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/30(金) 04:49:41
だから、真宗の信仰篤い土地で民俗学的伝承が消えたとするなら、功罪いずれが勝るにせよ、さして誇るべき事ではない気がします。
親鸞の在世当時、身内を亡くして嘆く遺族に対し「極楽往生を嘆くとは信心が足りない」と叱った僧侶が居た事が、
親鸞の孫・如信が親鸞から聞いた話を、曾孫である覚如がまとめた「口伝鈔」という書物に記されています。
これなど、今日宗教に嫌悪を抱く人が感じる、弊害の典型例ではないでしょうか。
では、こうした観点から先に挙げたブラックモアやウィルバーを論じることは可能なのか? 実は可能なのです。
ブラックモアが、自我や宗教の構成単位を単なるミームと断じて平気なのは何故か?
ミームがブラックモアにとって、無価値なものだからです。
ミームを全て捨ててしまうこと――それがブラックモアの目的です。
ミームを全て捨てるとどうなるのか?
……『悟り』が拓けるんだそうですよ。実はブラックモアは禅の仏教徒なんです。
(ミームを全て無くすことで)
> あなたは、暮らしの業を続けながらでさえ、
> 瞬間的に自我の絆から離れ、心をいつまでも集中できるようになる。
> これは、彼女が理解している禅の格言
> 「悟りの前に木を苅り、水を運びなさい。悟りの後に木を苅り、水を運びなさい」である。
ジョン・ホーガン「科学を捨て、神秘へと向かう理性」徳間書店
…あれですよねぇ。この本のタイトルと出版が徳間書店てだけで、何だかアヤシさ爆発ですよねぇ。(苦笑)
いや、ご存じない方のために解説しときますと、徳間書店てトンデモ本の出版元として有名なんです。
まぁでも、ブラックモアは確かに禅の修行によって様々な体験をしてるんだそうです。
彼女は本の中のインタビューで、ケン・ウィルバーに対しては否定的に述べていました。
ウィルバーは『西洋の悟りと東洋の悟りの統合』を目指していまして、自身も非二元的な恒常意識に達してる。
つまり『悟り』を拓いたんだそうです。眠ってる時でも、その非二元的恒常意識の感覚は失われないんだとか。
で、まぁブラックモアから見れば、ウィルバーの悟りはちょっと違うって事なんでしょうね(神秘主義者は大抵、自分の感覚に合わない神秘に対しては偽物って言うけど)。
83
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/30(金) 04:50:57
ウィルバーは、あらゆる科学や宗教や神秘主義を段階別に図式化し、それぞれの立場と主張を瞬時に把握出来る、緻密な一覧表を自作しています。
そうしたカテゴライズが、きっと鼻につくんでしょうね。
そうする事で、ウィルバー自身はあらゆる物事に対し中立者として振る舞える。それは絶対者の立場と同じですから。
ブラックモアは、ジョン・レン=ルイスという心理学者の悟りは、本物かもしれないと述べていました。
彼に出会った時の、「ああ、これね。宇宙がレン=ルイス化してるだけのことさ」という台詞が、ブラックモアのお気に入りのようです。
> ブラックモアは、レン=ルイスがしているようには、
> いつも観と無我の状態ではいられない。しかし、彼女にもみどころがなくはない。
> 「たいていの時間」と、彼女は顔をしかめ、意地っ張りの、茶化すような、気取った声でいった。
> 「スー・ブラックモアは、自分の生活を送ってるの、ヌヌヌヌ、ヌー!(彼女の会話にはこうした擬音が頻発するそうです)
> 本を書いて、みなが買ってくれて、すっごく有名になるんだから! でも――」。彼女は、柔らかい歌うような声を出した。
> 「宇宙が、スー・ブラックモア化してるだけのこともあるのよ」
本の著者ジョン・ホーガンは、レン=ルイスへも取材を行っています。
レン=ルイスによれば、彼の悟りはタイを旅行した際、盗賊に毒を盛られ昏睡した事によります。
目覚めた時、彼は歓びを越えた歓びに包まれ、いつまで待っても――眠ってる時でさえそれは消えず、以来死の恐怖も肉体的な苦痛への怖れも感じないのだそうです。
ジョン・ホーガンは、レン=ルイスの悟りは毒物による脳障害の後遺症だと結論付けています。
私には、宗教も死後の世界も自我さえも全否定するブラックモアが、何故ホーガンのような合理的見解を持たなかったのか不思議です。
無神論の宇宙論学者ホーキングも、やがて物理が神の心を解き明かすと言ってワインバーグに批判されていますが、
私が思うに何かひとつ、大抵の人の中には譲れない神秘が必要なんじゃないでしょうか。
物事を突き詰めて考える人にこそ、むしろ強く。
その神秘を人質に取る。踏みにじる。実はカルトの犯す過ちで、私が一番許せないのはこの点です。
その人が、その人である核を壊してしまう。そう思っています。
84
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/30(金) 05:04:55
では、カルト云々はひとまず置くとしても、いわゆる「悟り」を目指す原始仏教の類に、
そうした事に免疫の無い現代人の陥りがちな罠はないのか(宗教否定論者のわめさんの危惧も恐らくここでしょう)。
ジョン・ホーガンは、本書でひとつの警告的な見解を述べています。
> 面倒が起こり始めるのは、わたしたちがそのヴィジョンをワンネス(自他、主観と客観といった区別の消失。
> <ひとつ>であること。一切のものは同じ)教義のようなイデオロギーに移し替えるときだ。
> ワンネス教義は多くの現代の西洋人にアピールする、と
> オルスタッドとクレーマーは(彼らが1993年に著した「教祖白書」で)示唆する。
> なぜなら父教的な西洋の神学ほど権威的でなく、もっと抽象的――
> そのため科学と折り合いをつけるのがより簡単――に思えるからだ。
> 自己犠牲と世界の放棄を称賛する事によって、ヒンドゥー教と仏教は
> わたしたちの本質的な利己主義に解毒剤を差し出してくれるようにも思える。
> だが神秘的なワンネスは矛盾だらけだ、とオルスタッドとクレーマーは断言する。
> なにしろ、バラバラの個人が〈ひとつになる〉必要があるのだから。
> しかも、ワンネスは階層的な社会分割へと導く「隠れた二元性をはらんでいる」。
> 仏教やヒンドゥー教は、個体性を超越し、したがって深く永続的に
> ワンネスを体現した特定のたぐいまれな存在があると仮定している。
> これら悟りを拓いたとされるグルやアバター(=神の化身)はしばしば、
> 他の者たちは自分達に徹底的に身を委ねることでしか、悟りを拓けないと主張する。
> 「ある人物が他の者たちと異なり、勝っているとする
> いかなる体系も、まさにその特性ゆえに権威主義を生む」
> とオルスタッドとクレーマーは述べた。
> ワンネス原理に立脚したヒンドゥーのアーシュラマや仏教の僧院、その他の組織は、
> たいてい権威主義――そして父教的――である。
> ワンネス教義が、歴史的に高度に階層化された文化をもつ
> インドから輸出されていることは偶然ではない、と彼らは言う。
85
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/30(金) 05:05:27
【続き】
> 「教祖白書」のレンズを通してみると、いくつかの神秘主義的な語り口は
> パラドックスをはらんでいるのではなく、オーウェン主義なのだと思われる。
> 服従を通してのみ、わたしたちは真の解放を見い出すのだ。
> すべてはひとつ、だがあるものは他のものたちよりもっとひとつなのだ。
> そしてもしスピリチュアリティが、苦悩に満ちつつ栄光につつまれた人生に取り組む助けとなるもの、
> と定義されるなら、ワンネスと切っても切れない「悟り」は、反スピリチュアルな概念だということになる。
> それは、人生というものは、解決できる難問、すなわち答えられる謎であり、
> 逃れられるし、逃れるべき袋小路だといっているからだ。
> ヒューストン・スミスは、悟り――超自然的叡智、慈悲、道徳的完全無欠と定義される――は
> 単なる死すべき運命の人間には成就できない理想と見るのが良い、と強く主張する
> (中略)完全な悟りという神話信仰は、しばしばスピリチュアルの教師たちを自己愛的な怪物へ、
> そして彼らの生徒たちを自分の考えをもたない奴隷へと変えてしまう。
ジョン・ホーガン「科学を捨て、神秘へと向かう理性」徳間書店
86
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/30(金) 05:06:09
ホーガンは、更にこの見解を生身の私たち自身に当てはめ、率直にこう述べています。
> 仏陀は愛しすぎないこと――というより、痛ましい、必滅の、人間の愛を、天上のような、
> 宇宙規模の、神の愛に取り替えること――によって悲嘆を避けるようにと、わたしたちに助言した。
> だが、もしかしたら、仏陀はたいしたハートを持っていなかったのかもしれない。
> 結局のところ、彼は悟りの探求に出かけるために、自分の妻と子供を捨てたのだから。
> ハートを持っていることで払う代償は、ハートは壊れてしまうことがあるということだ。
> 神秘主義的神学はよく、わたしたちの死すべき運命の人生なんて大したことない、
> と教えることによってわたしたちを慰める。
> わたしたちがやって来て戻っていく永遠で無限の無に比べれば、
> わたしたちやわたしたちの愛する者たちは、夢のように儚いものだといって。
> もしこれが夢なのなら、わたしは目覚めたくはない。
仏陀についての見解には、異論もあるでしょう。
しかし、仏陀がそうした人物であるかのような仮定を可能にしているのは、
現代においてその教えを述べる者の中に、そうした匂いをかぎとらざるを得ない人達が居るせいだと思います。
そして、次のホーガンの指摘の中に、長々と述べてきた信仰と反信仰を繋ぐ、重要な示唆があると思うのです。
> ケン・ウィルバーは「グレース&グリット――愛と魂の軌跡」で暗に同じ意見を述べている。
> この本では、彼と妻のトレヤがいかに彼女の胸の癌に対処したかが語られている。
> 彼女が最後の望みをかけた治療を受けるため滞在していた
> ドイツでのある夜のこと、ウィルバーは絶望に呑み込まれた。
> (俺のクソ忌々しい人生はめちゃめちゃだ。トレヤのため全てを投げうったのに、
> 今、その最愛のトレヤが死にかけている。)
87
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2005/12/30(金) 05:10:09
【続き】
> 彼はふらふらパブにさまよい込んで飲み始めた。彼の苦悩を感じとったのか、年輩のドイツ人男性のグループが
> 彼をカウンターのスツールからひっぺがして自分たちと一緒にポルカを踊らせた。
> 彼は踊りながら泣いたり笑ったりした。ウィルバーは自分を憐れむ気持ちが洗い流されていくのを感じた。
> 「わたしの大いなる悟りは、何か協力な瞑想体験で光輝く白い光りにつつまれてもたらされた
> ――といいたいところだが」とウィルバーは書いている。
「それは名前も知らず、言葉も通じない、親切な老人たちがたむろする小さなパブで起きたのだった」
この繋がり、絆、温もり、何と呼んでも陳腐になってしまいますが、
わめさんの求めるもの、守りたいものはこれではありませんか?
これを壊し、ジョン・ホーガンの指摘するようにまるで無価値であるかに嘲笑う。
それが、あなたの憎む『信仰』の正体ではありませんか?
そして、ひゃっきまるさんを心底思い、ただひたすら幸せと健やかなるを願ってあげられた題目が、
ケン・ウィルバーを救ったそれと同じものが染み付いた経典と数珠が、
たぶんひゃっきまるさんの捨てられない、何よりも大切な『信仰』ではありませんか?
ならば、その『信仰』と『反信仰』は、同じものだと思うのです。
先に挙げた口伝鈔での、親鸞の話には続きがあります。
親鸞は、身内を亡くした悲しみに「信心が足りない」と言葉を投げつけた僧侶を、叱ったそうです。
では、どうすれば良かったのかとの問いに、親鸞はこう答えました。
「酒はこれ忘憂の名あり。これを勧め笑うほど慰めて去るべし」
酒には憂さを忘れるとの別名がある。これを勧めて愚痴に付き合い、笑うほどに慰めて去りなさい。
これが、親鸞を祖と仰ぐ私の信仰の、唯一誇るべき正しさです。
ケン・ウィルバーにも通じたのなら、きっとこれが正解だと思います。(^-^)
88
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2005/12/30(金) 13:15:14
春田の蛙さん、大変な長文を書いてくださりありがとうございます。
何度も読み直したのですが実はまだよく分かりません。涙 でも
>>86
の「次のホーガンの指摘〜」から最後の
>>87
で言われていることはすごく理解することができました。
わめは”概念”として宗教は功罪あり、その上でやっぱり好きになれないと感じる程度で否定はしていませんが信仰には否定的です。ただ信仰と言うものを心の病の鎮痛剤や心の栄養ドリンクを”飲む”と言うことに置き換えるならその限りではありません。(使用上の注意を表示すべきだと思いますが。笑)ただ、それにしたって薬に頼るのはあまりよいことではないと思います。わめの宗教・信仰の概念はこのようなものですが、個々の宗教についてすべてを知る訳もなく、この概念に収まるのか否かは分かりませんし、それは個別に考察する必要があると思っています。
春田の蛙さんの言われる人間の持つ「この繋がり、絆、温もり」は、一見性善説のようにも取れますがそうではなくて、集団で暮らす動物達にもある互いがうまく生存していくために具わった智慧のようなものでもあるように思います。宗教はその集団から切り離すためのものであったり、集団で暮らすために役に立つことであったり様々な目的で生まれたものかもしれませんが、この「互いが生存していくために具わった智慧」を春田の蛙さんの言葉を借りるなら「無価値であるかに嘲笑う。」ものが宗教であり、それを信仰することでその智慧を失っていくとするならそのような宗教には否定的でありますし、そのような宗教への信仰は警鐘を鳴らしたいと思っています。
宗教というものも他の分野と同じ人間の使う(心の)道具に過ぎないように思います。その道具をうまく使いこなせば役立つこともあるでしょうが、道具の持つ思想に自身が乗っ取られるようでは本末転倒だと思います。
主体者は道具ではありません。
「信心が足りない」と言葉を投げつけた僧侶は、道具の持つ思想に自身が乗っ取られているように思います。
主体者の心を伝えるための道具としてのひゃきまるさんの題目や経典や数珠、親鸞さんの身内を亡くして嘆く遺族に対しお酒の勧め、このように信仰が道具であるならば有効なように思います。
この社会という集団の中で生きるわめとしては、道具の持つ思想に人が乗っ取られる可能性が高いような宗教への信仰には、適格性チェックの免許制度でも実施してもらったほうがいいのじゃないかと笑えないジョークを最後に書いておきます。
89
:
ひゃっきまる
:2006/01/10(火) 03:22:14
>ALL
あけましておめでとうございます。
>>67-68
わめさん
『教条主義はファシズム?』 とLibraさんのリンクひと通り読まさせていただきました。
わめさんの考えと若干重なる部分もあると思いますが、僕の考えでは多くの創価学会員はそんなに深く「正しい信仰とはなんぞや?」と考えているわけではないと思います。正しい指導者が率いている創価学会についていくこと、これによって「正しさ」は保証されていると考えているのでしょう。
ちょっと誤解してほしくないのですが、
>「そんなことは今の今まで考えたこともなかった」
という言葉を、僕は否定的に捉えたわけではないのです。そうではなく、身近な友人が、僕とは全く違う思考様式というか常識を持っていることを直感的にさとって、ただ純粋に驚きをもったのです。
「体験重視」の「主観的思考」のため、そのような言葉が出た、というのはちょっと違うと僕は思っています。もちろん戸田二代会長の、有名な例え「テレビは原理が分からなくてもスイッチをひねれば点く」のように、現証こそが大事であるという立場をほとんど全ての学会員はとっていると思います。
また僕は、宗教のことに限らず、自分自身が実際に体験したことが物事の判断において最も重視するべきものである、という態度は基本的に正しいと思っています。
それはそれとして、「疑問にすら思わなかった」ということに僕は驚きを感じたのです。
わめさんのいう3つの分類というのは僕にはよくわかりませんでした。どこかに解説などありますかね?
90
:
ひゃっきまる
:2006/01/10(火) 03:23:19
>>69
春田の蛙さん
僕は人のタイプを分類しようとしたわけではなく、同じ事を聞いても(例えば日蓮仏法の教義の問題点など)人によって反応がかなり異なるのはなぜなのか、という問題提起をしたかったのです。
もちろん人間というのは複雑ですから、解答が出るとも思えないのですが、わめさんと僕は現在創価学会に対するスタンスは似ているといえるのに対し、その過程はまるきり違うと言ってよいと思います。わめさんと僕から何か分からないか、と考えた次第です。
「分かりたい」と思うことは傲慢とは思いません。「分かった」と思うことは傲慢と思います。
僕は単なる好奇心でこのような問題提起をしようと思ったわけではありません。僕の友人にはときどき創価学会への疑念を持ち、悩んだあげく創価学会はやはり正しい、と自分なりの解答を見つけ信仰に戻るという人がいるのですが、僕から見ると信仰に苦しんでいるように見えてしまいます。
かといって僕が「逆折伏」のようなことをすれば、結局それは創価学会がやっていることと変わらないのではないか、とも思うのです。つまり自説が正しく、創価学会が誤っていると主張し、友人の考えを曲げさせるような議論をすることは、傲慢な行為なのではないかと思うのです。
その友人は創価学会が正しいか否かで悩んでいるとしても、望んでいるものは、創価学会が正しいということを見出すことであり、創価学会が間違っているという話ではありません。
「まずは自分のことを判らないと」という春田の蛙さんのお言葉は確かにそうだと思います。しかし、友人知人に創価学会員がいるので、彼らの本心はどこにあるのか、ということに僕は無関心ではいられません。
>>73
以降についてはまだ読んでいないので、また後日レスします。
91
:
ひゃっきまる
:2006/01/10(火) 18:08:51
>>73-87
春田の蛙さん
大変な力作本当にありがとうございます。大変面白く読ませさせていただいたのですが、蛙さんの言いたいことが50%も理解できているかどうか甚だあやしいのがなんとも申し訳ないところです。
>>73-79
前半内容は、以下の文章に主張内容が集約されていると感じました。
>そうした定義に、体験を一般化させる事で、人間は繋がりを感じて安堵を得られます。
>それが、いつしか返って、創価学会問題のほんとうの苦しさ、深刻さを、宗教に関する議論に埋没させてしまう。
>宗教に関する、創価学会を含めた現実の様々な団体の、実態を無視した観念的で教条的な極論へと、結び付いてしまうのだと思います。
我々がものごとを考えるとき、概念やカテゴリーを使ってしまうのは避けられないことと考えています。ただ、言葉で表現できることには限界があるとしても、あくまで問題提起する本来の目的を忘れてはならないというか、現実の具体的な生活や感情が語られていなければ意味がないというか、そんなところでしょうか。
>>83
>私が思うに何かひとつ、大抵の人の中には譲れない神秘が必要なんじゃないでしょうか。
>物事を突き詰めて考える人にこそ、むしろ強く。
僕はジョン・ホーガンの著作は一冊しか読んだことがないのですが、諸分野の科学的権威を笑い飛ばした本書で自身の神秘体験とそれに対しての深い思い入れを告白していることに驚きました(以下)。
>同時に、僕はどうすることもできない唯我論に陥っていた。僕は、自分がこの宇宙では唯一つの意識を持った存在だということを確信するようになった。あるいはむしろ、もう知っていた。未来も、過去も、現在も、僕が心に描く「心象風景」以外のなにものでもなかった。
(「科学の終焉」 徳間書店(1996))
信仰とは何か、というのは非常に難しい問題と思います。ただ、人を苦しめるような信仰は良くないと、それだけははっきりと思っています。
92
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2006/01/11(水) 17:13:58
ひゃっきまるさん、こんにちは。^^
>>89
> わめさんの考えと若干重なる部分もあると思いますが、僕の考えでは多くの創価学会員はそんなに深く「正しい信仰とはなんぞや?」と考えているわけではないと思います。正しい指導者が率いている創価学会についていくこと、これによって「正しさ」は保証されていると考えているのでしょう。
『教条主義はファシズム?』でも書きましたように、多くの創価学会員は題目・御本尊・日蓮(大聖人)への信仰心と指導者絶対主義なのだと思いますよ。^^ ですからひゃっきまるさんの言われるように「正しい信仰とはなんぞや?」と考える学会員は少ないと思います。
> 「体験重視」の「主観的思考」のため、そのような言葉が出た、というのはちょっと違うと僕は思っています。もちろん戸田二代会長の、有名な例え「テレビは原理が分からなくてもスイッチをひねれば点く」のように、現証こそが大事であるという立場をほとんど全ての学会員はとっていると思います。
外れちゃいましたかw 体験重視・主観的思考のオリジナル信仰の方が多いとは思いますが、一人ひとりにスポットを当てていけばやはり千差万別なのかもしれませんね。(^^;
> また僕は、宗教のことに限らず、自分自身が実際に体験したことが物事の判断において最も重視するべきものである、という態度は基本的に正しいと思っています。
客観的に思考することができる方ならそれでいいのかもしれませんが、何かしらの思想的(宗教など)概念をベースに持っておられる方は自らの体験をその概念に当て嵌めて判断してしまいがちになるのではないかと思います。学会員に当て嵌めればいいことがあったら功徳、悪いことがあったら信心が試されているとか罰だとか転重軽受だとか物事を判断してしまいがちで、ひゃっきまるさんの幼馴染の学会員さんもこのような傾向にあるのではないでしょうか?
93
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2006/01/11(水) 17:18:29
> わめさんのいう3つの分類というのは僕にはよくわかりませんでした。どこかに解説などありますかね?
関係性からの3つの分類(実は2つ)はわめが勝手に思うことなので解説などありませんし、わめの中でも煮詰まったものでもありませんのでうまく説明できません。汗
それらしきことは下記記事でも少し書いておりますが、分かっていただけるか自信はありません。(^^;;
『他者との関係優先の思想』
http://wame.seesaa.net/article/10416885.html
『自分をどれだけ見つめても』
http://wame.seesaa.net/article/10451181.html
『客観的なモノの見方』
http://wame.seesaa.net/article/10687493.html
94
:
ひゃっきまる
:2006/01/12(木) 03:13:57
>>93
わめさん
>>67
>単純に立場を自己に置くものか、他者への思いやり重視の立場か、わめのようにどこにも立場を置かない関係性重視の立場かの三つのいずれかには分類できるのではないかと考えています。
「関係性重視の立場」という言葉は、わめさんは自分ではその言葉そのもので意味が自明な言葉と思っているかもしれませんが、僕にはほとんど造語のように思えます。
ですから、これらがいったいいかなる考え方による分類なのかを教えてほしかったのですが・・・。
僕なりに推測すると、「利己的な人間」「利他的な人間」「それらにとらわれない人間」ということになりますか。ただ、最後の場合をなぜ「関係性重視」とよぶのかは僕にはよくわかりません。
人間が利己的になるのは、不足しているものがあったり、欲しいものがあったりするからですね。雪山で遭難して、食べ物がたったひとかけらのチョコレートしかなかったら、独り占めしたいと思うのが人情でしょう。自分は我慢して、子供に食べさせてあげる母親がいたら、その人は利他的といえるでしょうね。こういうとき、関係性重視の人はどういう考えをとるんでしょう・・・。
95
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/12(木) 08:20:38
まずは今更ですが、放置になってたレスをいくつか。(^^;
> ひゃっきまるさん
おかえりなさい。寒波に見舞われて難儀をされている場所も
多いですが、ひゃっきまるさんは大丈夫でしたか?
>>29
>春田の蛙さんて携帯から書き込んでいるのですね。
そうですよ〜。このサイトのHTMLも携帯で組みましたし。
だから、最低限度のタグしか使ってなくて、味気無いんですよ。(笑)
>HPの更新でさえもわざわざネットカフェでやっていると他スレで見て仰天しました。
わーい、ウケたウケた♪
>それに大変様々な話題をもってらっしゃるし、文章も面白いので、多彩な人は実際いるのだな、と舌をまいています。
いやそんな事もありませんし、自分が無知なのはちゃんと自覚してるんですが(汗)、
けれど文章が面白いと誉めて頂いたのは、大変有難いです。(^^;
やっぱり、深刻な話題になりがちなだけに、どこか息を抜きながら話せる場所にしたいので。(^^
私ひとりで提供出来る話題など微々たるものですし、
もし今後とも、ひゃっきまるさんのご助力が頂けるなら助かります。
わめさんのブログでの、熱力学の第二法則についての当を得た解説も拝見しました。
ありがちな誤解で、私も前に見た時に気にはなっていたのですが、
巧く説明出来る自信もなかったので、ついスルーしてました(わめさんごめんなさい/汗)。
>>57
>大変有難いことです。もし僕に協力できることがありましたらご遠慮なくお願いします。
こちらこそ、大変有難いお言葉です。(深々)
実は
>>73-87
も、いくつかひゃっきまるさんのご指摘を伺わせて頂いてから
取り掛かりたい部分もあったのですが、それを入れるとさらに長くなってしまいますので、
今回書く際には、その部分はカットしました(返って分かり難くなってしまったかも知れず申し訳無いのですが…)。
この辺りは、是非ゆっくりご意見を伺いつつ、私も考えを進めていきたいと希望しています。
ですからひゃっきまるさんも、不明な点や私の説明が足りない点は、遠慮なく何なりとお尋ね下さいね。
年末年始は、いろいろと重荷を抱えた旅立ちであられたのだろうとお察し致します。
他スレでの脳関連の話題のような息抜きもまじえながら、地道にいきましょう。
とは言え、私が一番レスをお返しするのに間が空く事も多く、大変申し訳ありません。(汗)
96
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/12(木) 08:21:16
>>54
乾闥婆さん
>そうでしたね。懐かしいです。蓮祖の真言に関する勉強不足を指摘されたこと、覚えております。
今思えば拙い書き込みであったと恥ずかしい限りですが、乾闥婆さんは真剣に議論に応じて下さり、
実際に御書を読み込んだ上で御意見を聞かせて下さいましたよね。
本当に嬉しかったです。真面目に向き合って下さった事への謝念と敬意は、以来忘れられません。
当時の本音としては、公平を期す為にも、日蓮の念仏理解という点への批判は、
私自身が念仏者である訳ですから、なるべく控えたかった思いがありました。
空海密教と日蓮仏法について述べるなら、そのどちらにも私はいわば部外者であり、少しは偏りのない意見が書けないだろうか、と。
当時と今とで変わった考えとしては、四箇格言に対しての印象です。
これについては、念仏者としての立場からの資料理解が、日蓮を理解し四箇格言を『肯定』する上で、むしろ必須なのではないか。
そのように、現在では捉えています。
日蓮系の学者さんにもありがちな事ですが、宗派意識から日蓮の立場に立ち、彼の言動を他宗に関する資料理解を欠いたまま
無理に肯定的に読もうとする事が、逆に日蓮の他宗批判の偏狭な面ばかりを、浮かびあがらせてしまっているのではないかと思うようになりました。
それ故に、聖教新聞の座談会のようなものが、純粋な日蓮的立場にも見えてしまうのではないかと。
そして、四箇格言に代表される日蓮の批判態度を、それは鎌倉時代の事と時代に埋もれさせる事なかれ主義は、
現代に真摯に日蓮仏法を信仰される方の信仰的信念を害し、返って創価学会などの宗教カルトに追い立て、
それを批判する側をもカルト的な態度に堕さしめる、一種の思考停止ではないかとも考えるようになりました。
日蓮の他宗派批判に含まれる、今日にも通用し得る精神の永遠性を明らかにし、日蓮仏法の意義を確かめる事で、例えば信仰に寄り添いながらでも
創価学会に縛られる事なく、解き放たれた立場で脱会するしないも考える道になりはしないか?――そのように思うのです。
乾闥婆さんがおいで下さったのは良い機会ですから、このようにつらつらと考えていた内容を検討する良い機会かとも思うのですが、良かったらお付き合い頂けると嬉しいです。
私もあまり頻繁には書き込みが出来ませんし、ぼちぼちと気長なやりとりという事で。(^^;
97
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/12(木) 08:22:16
【続き】
>金岡秀友氏に『高僧伝9―日蓮』(集英社)という著作があることに驚きました。
>『密教の哲学』(講談社学術文庫)『般若心経 校注』(講談社文庫)など、手元にあります。
さすがに読書家ですね。私は氏の訳された弁顕密二教論が、『簡略仏教史』『簡略仏教史〜日蓮編』を書く際に大変役立ちました。
というのは、序文でシャイエルやレガメイ、エリアーデといった、仏教研究における東欧学派の見解が紹介してあったのですね。
私が思うに、現代の北米仏教の流れにも、こうした見解が影響している。
というよりも、カルトとマインド・コントロールについてもいわば先進国である欧米で、テーラワーダ仏教やチベット仏教などを受け入れるには、
セクト主義を排除する為にも、堕落史観的な仏教理解は、危険であったのではないかと思うのです。
プサンらに起源を持つと見られる仏教の堕落史観、つまり釈迦の説いた教えを宗教的性格に乏しい哲学と見なし、
そこから根本分裂→部派仏教→大乗→密教と次第に堕落していったとする考えでは、
密教に価値を見い出す事は出来ませんし、まして後期密教であるチベット仏教はいわずもがなです。
金岡秀友氏は仰る通り密教系の方ですから、この見解を採られないのは自明だと思います。
しかしながら、金岡秀友氏はこうした堕落史観の問題点を、むしろプサンの研究に遡って明らかにされ、
密教を擁護するためというよりは、むしろ仏教に対する幻想を退ける形での意見を述べられていました。
即ち、常識的に考えても古代人の一人であった釈迦が、古代という時代を離れて完全に合理的になど、振る舞ったはずがないではないかと。
98
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/12(木) 08:23:05
【続き】
ありがちな仏教に対するアプローチには、大きく二つの罠があると思います。
一つは文献を非常に恣意的に読み込んだ結果、独善的で偏りのある見解を、
これぞ正統な立場であると思い込む事。仏教の堕落史観は、その代表的な一つでしょう。
そしてもう一つが、汎仏教的な立場に立った、教養としての仏教理解です。
後者は前者に比べ、一見何ら問題はなく思えます。
しかし汎仏教的立場に立つというのは、特定の立場から個々の宗派を断じているにも関わらず、その事を自覚する事が出来ないという、思考の罠が存在します。
実は禅や念仏や日蓮宗の立場から他宗派にもの申すのと、本質的には変わらないにも関わらずです。
更にこの立場は、宗派ごとあるいは時代背景から必然として生じる差異――それこそが本来個性でもあるのですが、それを単なる邪魔物と捉えがちです。
差異を遠ざけて全体を見渡した円満な理解を求める、これはより大きな排他性の苗床となります。
これを証する実例が、大正デモクラシーの中から生まれた教養的仏教理解を友松円諦が大衆化させ、それが全体主義国家による大衆宣撫の手先と化していった歴史の流れであると言えるでしょう。
そして私は、現在の創価学会員が改善や改革と称するものの本質は、↑に示した前者から後者への切り替えに過ぎないのではないかと考えています。
それは、信仰を真面目に突き詰める学会員には、信仰と組織の実際との乖離を意識させ、抱える心の問題を深くさせるだけに思えるのです。
99
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2006/01/12(木) 13:55:37
ひゃっきまるさん、こんにちは。^^
>>94
> 「関係性重視の立場」という言葉は、わめさんは自分ではその言葉そのもので意味が自明な言葉と思っているかもしれませんが、僕にはほとんど造語のように思えます。
自明などと思ってませんから「わめの中でも煮詰まったものでもありません」と、また造語であるから「わめが勝手に思うこと」と書きました。(^^;
> ですから、これらがいったいいかなる考え方による分類なのかを教えてほしかったのですが・・・。
> 僕なりに推測すると、「利己的な人間」「利他的な人間」「それらにとらわれない人間」ということになりますか。ただ、最後の場合をなぜ「関係性重視」とよぶのかは僕にはよくわかりません。
「利己的な人間」「利他的な人間」は「自他的な人間」と集約しまして、「それらにとらわれない人間」というのは自他に囚われない”意識”のようなものですから実際そのような方は存在としてあっても、”人間”と捉えることは自他に引き戻される表現になるように思いますので「関係性の立場(意識)」と呼ぶのがいいかと思っている次第です。^^
> 人間が利己的になるのは、不足しているものがあったり、欲しいものがあったりするからですね。雪山で遭難して、食べ物がたったひとかけらのチョコレートしかなかったら、独り占めしたいと思うのが人情でしょう。自分は我慢して、子供に食べさせてあげる母親がいたら、その人は利他的といえるでしょうね。こういうとき、関係性重視の人はどういう考えをとるんでしょう・・・。
欲求も自他、独り占めしたいも自他、自分は我慢して子供に食べさせてあげる母親も自他ですね。この例では情報不足で「関係性の立場(意識)」の考え方がどうかとも言えませんが、これを主役のいないPCゲームなどとして考えればプレーヤーの立場になると言えなくもないかも。
100
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/14(土) 00:18:27
> ひゃっきまるさん、わめさんへ
ちょっと、こんな論争を考えてみて下さい。
ある人が、自我などほんとうは存在しないと「分かった」とします。
友人は、その事を知りません。
ある人は、手を変え品を変え、何とか理を尽して友人に「自我などほんとうは存在しない」と説明します。
でも、友人は納得しません。
二人はとても仲の良い友人だったのですが、互いにこの論争には、だんだんうんざりしてきました。
ある人は、ついに腹立ちまぎれにこう言います。
「なら、自我というのを出してきて、ここに見せろ!」
友人は答えました。
「ずっとお前がむきだしにしてるじゃないか。それが自我だよ」
101
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/14(土) 00:22:39
「自我を捨てなさい」とか「煩悩を捨てろ」とかいう議論でも、
>>100
は当てはまるでしょうね。
ところで、二人が論争になったのは、この例では自我の有無についてです。
つまり、自我とは何ぞや?などと考える『自我』が芽生えなければ、
二人の論争は始まらず、ずっと仲の良い友人同士でいられたかもしれません。
自我は確かに、人と人が争い合う元のようです。
では、そんな『自我』が芽生え「自我など無い」と論争する前の二人の友情は、
本物だったんでしょうか?それとも偽物だったんでしょうか?
その頃の二人には、自我は無かったんでしょうか?
禅にはこんな言葉があります。
>>73-87
で紹介したホーガンの著書にも、紹介されていました。
『修行を始める前、山は山で、川は川だった。
修行を始めて、山は単なる山でなくなり、川は単なる川ではなくなった。
修行を終えた今、やはり山は山で、川は川だ。』
問題なのは、単なる山でなくどんな「何か」になったかです。
ある人に芽生えた自我が別のモノだったら、
例えば「外界は全て、自我に写しだされた単なる幻想じゃないか?」
と疑う『自我』だったら、二人は面白がって議論に熱中したかもしれない。
ではこの場合、二人の友情は深まったと言えるんでしょうか?
仮にそうだとして、それは盛り上がった話題自体の真偽と、関係はあるのでしょうか?
法然は、ある人が救われた手段が、別の誰かに当てはまるとは限らないと述べています。
故に、汝の愛するところを他に強いるなかれ、と。
単なる山や川が、修行のやり方によって別なモノに見えてしまうのは、大変厄介ですね。
同じモノに見えてる者同士は良いですが、違うモノに見えてる者同士には争いの元です。
自我を捨てろ煩悩を捨てろと、自我をむきだしにした議論にも繋がります。
だからでしょうか、盤珪という江戸時代の禅僧は、こんな風に言っています。
仏になろうとあがくより、仏のままでいた方が近道なんじゃないの?と。
きっと、そうでしょうね。
>>100
の二人もそうです。
仏になろうとして鬼になる。心とは厄介なものです。
102
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/14(土) 00:25:18
以上を踏まえまして、まずは
>>90
ひゃっきまるさん
>同じ事を聞いても(例えば日蓮仏法の教義の問題点など)人によって反応がかなり異なるのはなぜなのか、という問題提起をしたかったのです。
それは、ご友人が『僕から見ると信仰に苦しんでいるように見えてしま』うから、『無関心ではいられ』なかった。
それが、出発点という事ですよね。
その問題が、『ひゃっきまるさんは』教義を突き詰める事でかなり整理がついたから、
他の人がそうではないのは、何故なのか気になったんですよね。
私は、
>>78
で申し上げた『様々な軋み』が、ひゃっきまるさんの場合の出発点にも当てはまると思います。
そして、教義について考えるのは、それそのものではないと思います。
宗教団体と政治の関わりに対する問題意識や、政教分離という観点が、その軋みを受けとめ、
組織とほんとうの自分の間で、引き裂かれそうになっている自身を救う、手掛かりであり手段になるように、
教義を突き詰めて考えるのも、私はその手段のひとつだと思います。
ですから、
>>78-79
で指摘したのと同じ問題は、教義を手掛かりにした場合にも起き得ると思うのです。
それとね、ひゃっきまるさん。
実はこのやりとりについて、ご覧になられたROMの方から、メールで以下のような御意見を貰ったんです(ここへの公開についてのご許可は頂いてます)。
>他の誰かの事なんて解らなくてもいいと思います。
>理解できないことがあっても当たり前とも思うし。
>ただ、その「あなたのことは理解できない」ことを
>自分で認めて
>なおかつ「そんなあなたの存在をそのまま認める」ことが必要
>に思います。
>理解できない部分があるからって仲良くなれないとか、そんな
>ことはないし、
>逆に解らないものを排除してしまう気持ちは、
>無理に解ろうとし、自分のことも解ってくれと強いるところか
>ら生まれるんじゃないかなぁ〜って
私は、非常に同感でした。そして、ここやわめさんのブログで交されているお二人のやりとりが、
↑の最後に記されているような、
>>100
で例示したような、そんな道へと踏み込みつつあるように思います。
そこで、些か長文のレスを書かせて頂く事にしました。
103
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/14(土) 00:25:48
さて、わめさん。
わめさんのご発言は、その場その場であまりに矛盾し過ぎています。
例えばわめさんは、他人の発言には、すぐに主観的主張ではないか?ソースは?根拠は?と仰います。
しかし
>>24
では、わめさん自身にも分からない事を「事実なように思う」と述べて、客観性に欠けるポパー擁護をなさっています。
わめさんが、ポパーの思想に感銘を受け、彼を感情的に擁護なさりたいのは自由ですが、
好き嫌い(宗教嫌いは理解します)を理由に、他人のそれにばかり客観性を求めて難癖をつけるのは、感心しません。
また、ぜんさんの学会に対するカルトとの発言に
http://wame.seesaa.net/article/11030245.html
反論されてますが、
>>92
などに書かれているように、あなたは創価学会(のみならず様々な宗教)をファシズムではないかと述べられています。
一般に使われる言葉の範囲では、カルトよりファシズムの方が世界史に刻んだ爪痕は遥かに大きいのですが。
それにファシズムは、記事中でわめさん自身が気にされている通り、言葉の定義としてはカルト以上に難しいのです。
BBSやブログは論文ではありませんから、言葉を通俗的な意味で普通に用いる事には、何ら問題は無いと思うのですが、
わめさんのファシズムは良くて、ぜんさんのカルトは駄目だと言うのは、客観性を欠いた単なる感情論だと思います。
私は、わめさんのこうしたご発言の矛盾は、わめさん自身が
>>88
>>92
で指摘された
『何かしらの思想的(宗教など)概念をベースに持っておられる方は自らの体験をその概念に当て嵌めて判断してしまいがち』だったり、
『(心の)道具に過ぎない』ものの『持つ思想に自身が乗っ取られ』ている事が、背景にあると考えています。
104
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/14(土) 00:26:15
例えば
http://wame.seesaa.net/article/10650360.html
のコメント欄での、一連のご発言です。
> 暫定真理で語るのは自由ですが、そこに仏陀は関係ないでしょうということです。
との指摘に、
> わめも記事でブッダの言葉を引用させていただいておりますが、このブッダの言葉に嘘偽りはないとすれば、わめや佐倉哲氏の解釈に誤りがあるということになると思いますのでその反証をお願いします。
>上記で述べたようにしっかり反証をしていただき、その反証に客観性(仏教内の客観性でもいいです)があり、わめがそれに反証できないようであれば法灯明の”法”のわめの捉え方を改めさせていただきます。
と述べられ、その後
>法灯明の”法”に暫定真理などが含まれるとするのは、わめの主観の思い込みであるとはっきり認めます。
>何で仏教を勝手に自論に取り込んでまるで自論を補強するような道具にしてたのか不思議にもなりました。
>今後レスさせていただくか記事として書くかは分かりませんが、わめが誤っていたことだけはここでお伝えしておきます。
と仰っています。
しかし、その後ひゃっきまるさんが
> Q 「法」とは、物理法則などの客観的法則を含む?
> A 釈尊は、「苦」を滅する方法を説いた。このとき、形而上学的見解や、宇宙はどのようなものであるか、ということは人間の「苦」とは関係ないとして説かなかった。そもそも仏教は物理法則や宇宙論に関心を持たないといえる。
と述べられると、わめさんは撤回されたはずのご発言を繰り返していますね。
わめさん
> ひゃっきまるさんと意見の大きく違うところは、仏教(ブッダの説く法)が真実(暫定心理)であるかどうかはブッダにとっては重要だったと思うことです。
ひゃっきまるさん
> 僕が考える釈尊の説いた法とは、世の中をありのままに観察する方法であり、苦を解決する方法であったと思うのです。それは、わめさんの考える「客観的真実」というのとはかなり違うものだと思っています。
わめさん
> わめはブッダが「世の中をありのままに観察」し(客観的事実)、『縁起(無我・無常・空)』という暫定真理を見つけ出し、この客観的事実・暫定真理を知ることで苦を克服できるものと思ってます。(^^;;
105
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/14(土) 00:45:33
わめさん
> わめは真実の表出された状態?を客観的事実、その真実には暫定真理が働いていると思いますし、ブッダの教え『縁起(無我・無常・空)』にもこの暫定真理が含まれていると思っています。
何故こんな事になったんでしょう。実は、引用させて頂いた最初の指摘(このご指摘が必ずしも正当だとは、私は思いません)に対する、反証主義という『思想』に則った反論に、すでに無理があるのですよ。
デュエム=クワインテーゼというのをご存じですか?
『どのような仮説も、どのような観察からも支持される』、
つまりある事実を用いてある仮説を反証する事は出来ないというもので、
これに従えば二つの矛盾する仮説があった時、その一方を棄却出来ない事になります。
これを科学哲学では、反証主義に対する「決定実験の不可能性」とか「過小決定の問題」と呼びます。
デュエム=クワインテーゼは、哲学の思考実験が導く一種の極論ですが、自然科学における実際面を見るとき、例えば、ある仮説に都合の悪い実験結果が出た場合です。
仮説を保持するために、実験結果の正当性を疑い、あるいは仮説自体の補強を行って、実験結果の批判に耐えようとする。
こうした事は、ごく普通に自然科学で行われる事です。こうした後付けの変更を、アドホックと呼びます。
もちろん、限度を越えたアドホックは「ズルい」訳ですが、デュエム=クワインテーゼによる、こうした問題提起を踏まえた見解のひとつが、クーンによるパラダイム論です。
「観察の理論負荷性(わめさんが偏った仏典の読み方をする事)」と「通約不可能性(わめさんとひゃっきまるさんで議論が噛み合わない事)」が、その大きな柱となります。
こうした科学哲学による反証主義の読み方を踏まえると、先の指摘に対する、わめさんの反証主義に則った反論には、こう述べる事が出来ます。
自然科学においても、その実態にはそぐわないのが反証主義であり、
まして宗教議論において、反論者を納得させる宗教的解釈を用いた反証など、不可能である。
自然科学における実態もそうであるように、実際の宗教論争の歴史がそれを証明している。
106
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/14(土) 00:45:58
ひゃっきまるさんが、
>>91
で紹介されている「科学の終焉」では、ホーガンによるポパーへのインタビューも収録されています。
その論孝は、以下のような記事で締め括られていました。
> 1994年にポパーが亡くなった時、エコノミスト誌は「生きている哲学者の中で、
> 最もよく知られ、最も広く読まれ」てきた人物として彼を持ち上げた。
> 特に、彼が政治的分野での反独断主義を主張したことを讃えていた。
> しかし、その死亡記事は、ポパーの帰納法(彼の反証可能性の基盤)の扱い方は、
> 後の哲学者たちによって拒絶された、とも記してあった。
> 「彼自身の理論に従えば、ポパーはこの事実を歓迎すべきだったが」とエコノミスト誌は冷淡に記していた。
> 「彼はそうする気になれなかった。皮肉はここにある。ポパーが自分が間違っていると認められなかった点に」。
> ポパーの反独断主義は、科学に当てはめられた時、ある種の独断主義となってしまったのだ。
ポパーの帰納法(彼の反証可能性の基盤)の扱い方とは、彼の反証主義が、
そもそもヒュームによる枚挙的帰納法批判を受けてのものであった事によります。
ポパーは、科学の方法論から帰納法を廃し、仮説演繹法にのみ頼る、反証主義という一種の極論を提案した訳ですが、
先に示した科学哲学の検証を通じて、ある仮説にはそれに伴う様々な補助仮説が存在すると証明され、
仮説演繹法もまた、帰納的推論を含む事が定説となりました。これは、反証主義の根幹に関わる問題です。
よって現在、反証主義に重要な示唆が含まれる事は認められても、この立場に立つ哲学者はほとんど居ません。
分かり易く言うなら、日蓮仏法における天台五時教判の誤りのようなものです。
五時教判が誤りだからと日蓮仏法の価値が全否定される訳ではありませんが、
日蓮仏法を基準に仏教を考える事に、特別な立場を与える事は出来なくなります。
反証主義も、これと同じです。物差しとしては欠陥があるのです。
しかし、欠陥があるから使えない訳ではなく、他の物差しと組み合わせる事で、判断の要素のひとつにはなるのです。
107
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/14(土) 00:46:25
しかるにわめさんは、自身が反証主義に則っている事を盾にして、返って自身の感情論を守ろうとしているように、私には見えます。
それは、仏教の教学を都合よく解釈して、自身の「信じたい」という気持ちを守る事と同じです。
感情論がいけないと言うのではありません。感情論だと自覚していれば、そこから他者の感情論に寛容になる道もあります。
しかし感情論を教学や思想で言いくるめていれば、ほんとうの意味で自身の間違いに気付く事は出来なくなります。
まして他者への反論に、感情論を隠して思想や信仰を盾に用いるのは不誠実ですし、やがてほんとうの自分が分からなくなります。
つまり、思想や信仰に乗っ取られて、客観的な判断が出来なくなるのです。
ホーガンの「科学の終焉」の指摘から、ポパー自身のそれについて、ひとつ紹介しておきましょう。
> 彼はさらに、他のユダヤ人たちがゲルマン文化に同化し損なったことと、政治的左派として目だってしまったことが、
> 1930年代のファシズムの台頭と国家一丸となっての反ユダヤ主義の一因となった、と主張した。
> 「…反ユダヤ主義は、ユダヤ人たちもユダヤ人でない人々をも同じように脅かした悪事であり…
> それを挑発しないようにベストを尽くすことが、ユダヤ系のすべての人々の務めだった(Unended Quest 105ページ)」。
> ポパーは、もう少しでホロコーストの責任を(被害者の)ユダヤ人に負わせるところだったのだ。
わめさんがぜんさんに対して取った態度と、ポパーのそれはよく似ているように私には思えます。
ぜんさんに対して、まさにカルトという言葉で学会員を『挑発しないようにベストを尽くす』事を望まれた訳ですから。
反独断主義が独断と化していく罠は、こんなところにあります。
ポパーの両親は、キリスト教ルーテル派に改宗したユダヤ系のオーストリア人でした。
ポパーの主張が、実は自身の体験を踏まえた感情論であった事は、言うまでもありません。
108
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/14(土) 01:00:13
さて、ひゃっきまるさん。
長々とわめさんとの議論の食い違いについて、私の思うところを述べてきました。
わめさんのブログでの、ひゃっきまるさんの姿勢を私は支持しますし、述べられた御意見の多くにも、私はひゃっきまるさんに同意です。
しかし、わめさんのお立場に立ってみれば、このような食い違いも無理からぬ事に思えます。
わめさんの御意見から、その論理的正当性を除き、背景にあるだろう感情的正当性を思えば、そのように思います。
言ってみれば、わめさんも
>>78
で示した『様々な軋み』を、反証主義や宗教批判に託し、受けとめてもらっているのではないでしょうか。
そこから、わめさん独特の様々な解釈も、生まれているように思います。
それは、確かに広範な検証に耐えるものではないでしょう。
つまりは、他者と共有出来るような、公正な視点には欠けているかもしれない。
その点でひゃっきまるさんと議論を続けても、返って溝は深まるばかりに思います。
しかし、こうした議論に入る前、お二人が感じたであろう共感は、偽物だったと言えるのでしょうか。
109
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/14(土) 01:01:12
あるいは、ひゃっきまるさんが宗教の教理面ではなく、
組織や人の陥りがちな様々な問題点に興味を持たれる方であったなら、
お二人の議論は意気投合して盛り上がったかもしれません。
もちろん、それでは宗教の一面を述べた事にしかならないでしょう。しかし、教理や精神文化の歴史もまた、宗教の限られた一面です。
わめさんからしてみれば、私やひゃっきまるさんの述べている事は、創価学会に心底酷い目にあった方の、その生乾きの傷痕に、
創価学会に救われた部分のある人も確かに居るんだという『客観的事実』を突きつけるに等しい、そんな受け入れ難さがあるのではないでしょうか?
良いではないですか、宗教(わめさんは宗教と信仰は別と仰いますが)が嫌いなくらい。
念仏に酷い目にあった人には、法然も親鸞もクソ坊主だと思いますよ。
私は、それで良いと思います。
そうした方には、法然や親鸞のクソ坊主の面を語るのも、念仏者としての役割であると思います。
教学議論が受け入れられない方には、ではどんな手掛かりからお気持ちを整理すれば良いか、その人の身になって考える事が必要だと思います。
分かり合いたい――ただし、この方法で。
それは結局、その方法で救われた自分を、受け入れてくれと望む事だと思います。
それが成功すれば、確かに嬉しい。折伏がきまって嬉しいのは、だからではないかと私は思います。
110
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2006/01/14(土) 03:18:54
春田の蛙さん、こんばんは。^^
まずはわめのブログを読んで頂いて、その上このようなコメントまで頂いて感謝しております。
またぜんさんとのコメントのやり取り見てくださってご意見をいただけましたが、EnjoyLifeブログじゃ述べておりませんがここでも以前に書かせてもらっているように、概念よりも個々の人にスポットを当てて優先的に考えた場合創価学会を”カルト”表現することはわめのブログを読まれるそれに属する方に(よい方向にいかない)刺激を与えてしまうのではないかと言う事と、実際私達の住むこの日本において創価学会を”カルト”と断定はできないというのも事実であるように思いますし、ぜんさんのカルト発言に”それに属する方”から反論が出てきた場合に、ブログ管理者として不本意ながら創価学会の日本における評価に対してカルト発言は妥当ではないと客観的に判ぜざるを得ないと思ったわけで、春田の蛙さんはむしろそれをわめの感情的見解のように言われておりますが学会をよく知るわめが感情的に言わせて貰えばカルトなんて言葉では足りないくらいもっと批判をして欲しかったくらいです。むしろ感情的に言えば意思疎通ができ得ると思う方(この場合ぜんさん^^)にバリ学会員から反論が出てくる前にそのような論争を避けたい、正直に言うと意思疎通ができ得ると思う方を窮地に貶めることはしたくないと思う気持ちが働いたわけで、この点と個々の人にスポット当てた場合にわめは止むを得なかった思っているのですがこのようなわめの気持ちを踏まえご意見をお聞かせ願えればありがたいです。
また「EnjoyLifeブログじゃ述べておりません」と書いたようにEnjoyLife2のコメント欄ではホンネをチラっと述べてますが、
http://wame2.seesaa.net/article/11013916.html
EnjoyLifeではそれぞれの人がよりよい方向に進まれることを最優先で考えておりますのでわめのホンネを語ることは非常に少ないと思いますし、
http://wame.seesaa.net/article/10416885.html
で『直接の言動はそれこそ「他者との関係優先の思想」に反するように思い、回りくどい形で言動してきたつもり』と言っているように人それぞれ”よりよい方向”にということを優先しながら書いているつもりで、『教条主義はファシズム?』でも特定の個人を指していないから書けたことであって、そう上”?”も意図的につけました。
また暫定真理のお話ですがここでもわめの言っていることは仏教と自身の考えを結び付けようなどという気持ちは(ブッダを高める意味で)”善意”としてなくはなかったわけですが、ただそれだけのことで拘りもなくでもそれが拘っている方の気持ちを逆なですることは不本意であったわけで、だからその程度のわめの見解に執着する気もサラサラなくて、それを引っ込めれば拘る方の気持ちが静まるならとの思いでわめの見解をできるだけ喜ばれるであろうと推測する表現で引っ込めたわけです。
ひゃっきまるさんはその経緯読んで『わめさんの考える釈尊観を提示することは全く問題ないと思います。ただ、文献的なものや研究者の著書から言っていることか、そうでないかをわかるように書く必要があると思いますが、わめさんがそれを混同するように書いているようには僕には思えませんでした。』とおっしゃって頂いたので、わめの原始仏教感を改めて述べさせていただいた次第です。
またわめからすれば楽しく議論ができる方(ひゃっきまるさん!)が現れてまた見解の違うご意見に触れて自身の考えを訂正する機会であることを喜んで、今後のひゃっきまるさんのコメントにも期待しているわけです。^^
アドホックとパラダイム論のお話もしていただいておりますが正直わめにはよく分かりません。汗 ただ人は真理を持ちえることは出来ないのじゃないかと思いますし、自身や他者が信じる真理のようなものを打ち砕き、またそれにより少しでも真理に近づこうとする姿勢には賛意を表するものです。
当然わめの書いていることなど真理、正しい見解などと言うことはあり得ないと思っておりますし、批判をいただけることは何よりうれしいことであります。(^-^)
眠くなってきましたので思考が止まってきましたw とりあえずここまでで投稿します。
また春田の蛙さんのコメントを読み返してお返事に足らないと感じることがありましたら後日お返事させていただきます。
111
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/14(土) 07:19:48
>110 わめさん
いくつか誤認があるようですが、私の書き方にも不足や問題があったようです。
私が申し上げてるのは、そもそもわめさんが反証主義的に議論を捉えてる事が、問題ではないかという事です。
ひゃっきまるさんの議論の進め方は誠実であったし、水掛け論からは手を引こうともされたのに、
延々自説にこだわったのは、私はわめさんだと思います。
仮にひゃっきまるさんが、どれほど詳細に論証を挙げられても、
わめさんがそれを認め自説を破棄なさるとは、私にはどうも信じられません。
それに、そもそもひゃっきまるさんはわめさんに対して、反証しようというこだわり自体なかったのではないかと思います。
わめさんは間違いは認めると繰り返され、自己の絶えざる訂正という趣旨を述べておられますが、
結局のところ、ほんとうの意味では自説を取り下げないために、
反証主義を持ち出したり、他人の気持ちを持ち出したりしているように思えます。
ポパーの反証主義や反独断主義は、そういう道具としては誠に都合の良いものなのです。
反証主義的態度が、本来存在しない対立構造を生んでいるようにも思います。
日本において、創価学会等に対しカルトという言葉を用いる事に、
何ら問題はない事を論証する事は可能ですが、わめさんに対しそれを反証する事は不可能だと思います。
無論、いかに論証されようと、わめさん自身がそう思わないのは自由です。反証主義にこだわらなければ、そこで議論は終わりです。
管理者が、特定の管理方針に基づき、自らの主観でサイトを運営するのも、当然の権利です。
反証を求め、批判を求め、手厳しい御意見を、専門的な教えをと求めたのは、元々わめさんではありませんでしたか?
それが自身の能力を越え、手に負えなくなったら、徹底した論証からサイトの意義云々へ、議論が土台から変わってしまう。
そして、相手が分かってくれてない等と言う。そういう、被害者的な態度は、私は良くないと思います。
また、わめさんは創価学会に対する心情を述べておられますが、ポパーのナチスに対する心情が友好的だったと思いますか?
心底反対にも関わらず、何故ポパーがあのような主張をしたのか。
私が指している感情論とは、そういう複雑な心情であって、激高して話にならないというような意味ではないのです。
112
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2006/01/14(土) 11:32:42
春田の蛙さん、こんにちは。^^
反証主義的に議論を捉えてると言ってもらえるのはあり難いのですが、わめはそれほどの論理・合理性のあることを書けているとは思っておりませんし、ひゃっきまるさんとの議論の進め方をみてもらってもわかるように論点が大きくズレまくってます(汗)。
ただ水掛け論にはなっていないように思うのが、初期仏教についてなどのひゃっきまるさんの見解にはなんらわめは反論をしているわけではなく、と言うか”信仰を捨てよ”の信仰に初期仏教が入るか否かの見解を残して見解がほぼ一致していると言うところまでようやく辿りつけた点にあると考えます。
現在の話の展開としては仏教思想に至っておりますが、ひゃっきまるさんの見解の「釈尊の思想のバックグラウンドにあったもの、言い換えると釈尊の覚りの内容は、不明なままだったはずです。」に対し、それは”縁起(釈尊の覚り)”であるとする松本史朗氏、宇井博士のテキストや、Libra師匠、佐倉氏もそれは”縁起(釈尊の覚り)”であると主張されているということ、そしてわめも同様の見解を持っているということを述べさせていただいたところまで議論は進んでおりますので、決して水掛け論にはなっていないように思います。
続いてわめが自説を取り下げないと言われている点についてですが、ひゃっきまるさんとの議論の中でわめの自説はこの”縁起(釈尊の覚り)”であると思うのですが(それ以外は意見がほぼ一致している)、このことに対してひゃっきまるさんは先程あげたように「釈尊の覚りの内容は不明なまま」との見解までおっしゃられておりますが、”縁起(釈尊の覚り)”であるとの見解にはまだ反証(詳細に論証)はされていないように思います。
わめとしてはご指摘されているように”自己の絶えざる訂正”、いわば反証主義の元となる可謬主義の立場にあるわけですが、自説の主張は誤謬の発見とその訂正を主題としているにも関わらず”誤謬である自説を訂正できていない”とすれば自語相違も甚だしく、何をおいてもこの点は反省すべきことになると思いますので、ひゃっきまるさんや皆さんがわめの自説に反証(詳細に論証)されて、そのことに更に反証をできないままで自説にこだわり訂正できてない部分があるとしたら是非ご指摘を願えればありがたいです。
続きまして創価学会のカルト性についてですが、このことについての是非はあると思いますし、是非のそれぞれの見解の立場に論証は存在すると思います。わめは是非の見解があるとしてそのいずれにも現在のところ”客観的にみて断定はできない”と思うわけです。
また今回の場合のカルト発言は特定の方に向けられた言葉(お返事)でもあり、相手の方に感情的な発言を誘発して現在学会問題に悩まれている方を余計に苦しめる結果になりそうに感じまた色んな立場の方に対しても決してよい方向に進められることではないと判断したわけで、わめも”主観的にはどちらかと言えば学会はカルトである”と思っているわけですのでカルト発言自体が誤りであると指摘しているわけではありません。
それとわめは可謬主義ではありますが、ポパーや反証主義というのには拘っていません。ただ可謬主義は必然的に自分のもつある見解が誤謬であるということを自他からの反証作業により初めて発見できるわけで、そのために反証は必要であると思っているだけです。
この自身の誤謬の発見を重視するあまり、春田の蛙さんに誤解を与えてしまうようなコメントが多くあったのかなと思ったりしているわけですが、そうではなくご指摘されているように、わめは実は誤謬を訂正することを嫌っているとしたならば自分の中では大変なことですので更なるコメントを頂ければありがたいです。
113
:
留守番
◆UlmatWmWgA
:2006/01/14(土) 16:04:22
わめ様
>論点が大きくズレまくってます(汗)。
論点が大きくズレまくっている書き込みに、レスつけるのは大変だと思いませんか?
議論の行く先が振り回されてます。
この板の目的と、このスレの目的と、それからこのサイトの意義
カルト啓蒙サイト、希望の風
もう一度よくお考え下さい。
春田の蛙さんへ
めんどくさいからハンドル留守番でいいっすね。
横レスすいません。
114
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2006/01/14(土) 16:17:53
留守番さん、初めまして。^^
> 論点が大きくズレまくっている書き込みに、レスつけるのは大変だと思いませんか?
> 議論の行く先が振り回されてます。
す、すいませんw おっしゃるとおりかもしれませんね。(^^;;
> この板の目的と、このスレの目的と、それからこのサイトの意義
> カルト啓蒙サイト、希望の風
> もう一度よくお考え下さい。
自分ではコメントくださった方にただお返事をさせてもらっているつもりなのですが、このただお返事がこのサイトの意義、スレの目的に外れていないかということも考えていなかったということであると反省しています。
以後はサイトの意義、スレの目的に反するコメントを頂きましても出来る限りスルーさせていただきます。
きっとROMされている皆さんにも不快な思いをさせてしまったのかもしれません。
申し訳ありませんでした。
115
:
ひゃっきまる
:2006/01/15(日) 02:43:25
春田の蛙さん
実は新年早々インフルエンザに見舞われてしまい、1週間ほど自宅でうんうんうなっておりました。現在はもうほとんど完治しています。ここ最近レスを頻繁につけることができたのも、実はそういう事情もあります。来週からは少し仕事の方に専念しようと思います。
久しぶりに苦しい病気を体験し、心境の面でもいろいろ発見がありました。病気で周囲の人に迷惑をかけてしまい、本当にいたたまれない気持ちになりつつも、苦しさからあらぬ人に八つ当たりしてしまうような自分の心のどうしようもない身勝手さや弱さを自覚したり。
赤の他人には社交辞令という仮面を通すことによって逆に素直に自分の感謝の気持ちや申し訳なさを表現できても、本当に感謝したい人や本当に申し訳なく思っている当人にはつい憎まれ口をきいてしまったりして、本当に人間の心はままならないものだと思いました。
「心が通じない・・・!」ということが、僕にとって世の中が生き辛く、苦しいと感じる大きな要因であると、常々思っています。
子供のように素直に自分の気持ちを晒して生きられたらどんなに良いか、と思っているのに、逆に自分の気持ちを隠すことにこそ一所懸命になってしまうのは、僕の悲しい性(さが)なのだと思います。
116
:
ひゃっきまる
:2006/01/15(日) 02:43:58
わめさんのサイトでの初期仏教を巡る議論のことですが、大変ご親身なレスありがたく思います。
春田の蛙さんが指摘するわめさんの議論の問題点があたっているかは僕にはコメントできませんが、僕は少なくとも議論を続けることは可能だし有意義ではあるだろう、と思っていました。しかし、
>>112
のわめさんのコメントを見るに付け、「議論の流れ」に対する評価が僕自身の理解していたものとはかなり異なり、相互の理解不足は相当なものだな、という感想を素直に持ちました。
わめさんと議論していたのは、自分を受け入れて欲しいとか、同じ経験を持つ人間どおしとして分かり合いたいとか、そういう動機とはあまり関係がありませんでした。
ですから、ここで双方が意見の相違を確認するというだけでも僕は全然問題を感じなかったのですが、議論が噛み合わないことにストレスを感じていたことは事実です。
117
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/16(月) 09:33:22
>>115
ひゃっきまるさん
> 実は新年早々インフルエンザに見舞われてしまい、
うあ…それは大変だ。病気は治りかけが肝心ですから、養生を第一に心がけて下さいね。
>ここ最近レスを頻繁につけることができたのも、実はそういう事情もあります。
あー、解りますソレ。
そういう時に書き込みがあると即レス返したり、気になってた資料を読み込んで整理したり、私もよくあります。(^^;
いや、何かしてないと返って気分が落ち込んだり、不安定になったりするからさ。
そういう時にトラブると落ち込みも倍だけど、逆に役に立ったなんて言われた時は、こっちの方が泣けるほど嬉しかったり。
きっとお互い様だと思いますよ。ネットだと顔が見えないから、
無理に強がらなくても話題にしなければ分からないって事、ありますよね。
病気の場合だけじゃなくて、生活の悩みとか色々な場合で。
リアルが大変だからネット出来ない人、リアルが大変だからネットで勇気もらってる人。ホント色々です。
>来週からは少し仕事の方に専念しようと思います。
了解です。私もしばらくレス返すのが滞ると思いますから、ちょうど良かったです。
書き込みは、思った事があれば何でも気の向いた時に書いといて下さいね。
私も、時間が取れる時にはひゃっきまるさんのレスを読み返して、思い付いた事があれば書きますから。
ウチの父親が生きてた頃さ、私が病気とか怪我するたびに嫌な顔するのよ。
看病ひとつしてくれる訳でもないのに、周りが私を心配するのが嫌だったみたいで。
俺は風邪ひとつ引かない。お前はたるんでる、気持ちの問題だ。そんな感じでね。
いや、たまには風邪引くんだよ。そうすると今度は俺が心配してもらう番だと言わんばかりに、ワガママ爆発させて周りを困らせるの。
ホントに困った人だったんだけど、叔父の話では、自分も兄貴(私の父親)も、昔から母親に面倒見てもらった事がないって。
だから私の病気や、それに対する周囲の心配が、腹立たしかったのかもしれない。
世の中綺麗事じゃないからね。愛憎がもつれあってた相手が病気で弱ってたりすると、
例えそれが末期癌で余命いくばくもなくても、だからこそ抑え難い心の火が燃え上がって、
それをぶつけてしまうものです。そして、それを後々悔やんで、でも仕方なかったんだって気持ちもあって、苦しんだりする。
118
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/16(月) 09:35:06
【続き】
私だってね、↑こんな中で自分を看病してくれてた母親に、我慢出来ない事があったらぶつけるもの。
子供の時の事は心底有難いと思っても、それで今の辛さが解決する訳じゃないから。
ぶつけたい相手にぶつけられればまだ良いけど、それが無理な場合は、私だって八つ当たりはすると思うよ。それで、後できっと落ち込む。
罪悪感って、不公平だよね。「悪い事したなぁ」って考える人にこそ、強く襲いかかる悪魔みたいなもんで。
「自分は悪くないぞ」って思う人には、あまり力が及ばない。
罪悪感から罪を自覚するんじゃなくて、罪だと思うから罪悪感を感じるんだもの。
だから、ほどほどで自分を許してあげて下さい。私なんか心は汚い部分ばかりだから、それがそのまま人に伝わったりすると大変です。(^^;
自分の汚さ弱さを自覚すると、何だか周りばかり強く美しくも思えるけど、それは錯覚ですよ。子育てに悩んでる時は、自分だけが親失格に思えてくるのと同じです。
人の親切や善意に応える一番の方法は、自分自身が楽になる事だと思います。
でもなろうとして楽になるのは難しいから、いつか自然に幸せや気持ちの安らかさを感じられる日まで、感謝や恩返しはとっといたらどうでしょうか。
悪いなぁと思うより、幸せだなぁとか、楽になれたなぁと思うからこそ、始めて自然に感謝が伝わるのだと思いますから。
それに親切や善意は、借金じゃないからね。借りた相手に返さなきゃってものでもないですよ。
相手が楽になって、その分、別な誰かに善意を向けてあげられるなら、それでこそほんとうに、相手への善意が報われたと言えるんじゃないでしょうか。
ひゃっきまるさんだって、自分が逆の立場だったら、病気でしんどい人から貸しを取り立てようとは思わないでしょう。
その人の辛さが癒えてから、もし笑顔が見られれば、その時始めて、以前の善意も報われたと思えるんじゃないですか?
そういうのを、きっと無償の善意と呼ぶのだと思います。
ちなみに私は心が狭いので、ネットはもちろんリアルでも、そう思える限度を越えて他人に親切にしたりはしませんw
それをすると、お返しが欲しくなって、相手も自分も苦しくなっちゃいますから。(^^
119
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/16(月) 09:35:46
>>113
留守番 ◆UlmatWmWgAさん
>めんどくさいからハンドル留守番でいいっすね。
了解です。いつも留守番してもらってますしw
宣伝カキコの削除やら何やら、いつもお世話になってばかりですみませんです。(深々)
120
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/01/17(火) 06:12:01
しばらく留守するかもしれない前に、これだけ追記。
ひゃっきまるさんの
>>115
は、私の文意を真摯に読み込んで下さり、自分の中できちんと噛み砕き消化してから、
ありのままのお気持ちを率直に正直に書いて下さったものと受けとめています。
私は
>>101
で盤珪を例に挙げました。しかし盤珪自身、それを頭で考えて生悟りを述べた訳ではありません。
吐いた痰が真っ黒な血の固まりになって転がり、足腰がただれて膿むほどの座禅を繰り返して、求道には苦しんでいます。
それである時、ふと自然に、それが無意味だ、遠回りだと悟るのです。
自然に近道を行ける人に、無理な遠回りを強いるのは間違いですが、
遠回りな道しか歩めない性質も、けして責められるべき事ではないと思います。
盤珪の無意味な修業は、まさにその無意味さを盤珪に悟らせ、頭で考えた理屈ではなく実態を伴った真実として、
彼に自信と説得力を持ってそれを語らしむる上で、報われたのだと私は思います。
例えば言葉の無力さを嘆く言説も、その言葉に全力を傾け、最大限に努力を尽くして、
尚そうであったと噛みしめている者から発せられた時でなければ、そこに込められた深い哀しみを感じる事は出来ません。
そうでなければ、単に言葉をバカにしている、ひいてはその言葉で何かを伝えようとした相手をバカにしているだけの、不誠実な態度と受け取られるでしょう。
言葉の無力さを噛みしめ、禅の無功徳を実感し、念仏など修行にも善行にもならないと自信を持って言える、
そんな言葉や禅や念仏が、ほんとうの言葉や禅や念仏であると受け取られる事は多いと思います。
悩みや苦しみが、無意味や無価値になる事で報われるその日まで、どうかご自身を大切になさって下さい。
それを突き詰め過ぎて、自分自身を喪くしてしまっては、やはり何にもなりませんから。
他人を見失わないためには他者への寛容が大切なように、
自分を見失わないためにはやはり自身への寛容も、私は大切だと思います。
121
:
乾闥婆
:2006/01/20(金) 22:01:57
>>96-98
春田の蛙さん。
ご無沙汰しております。年末年始以降ずっと仕事が忙しく、レスをする時間がなかなか取れませんでした。まだ落ち着いてはおりませんが、簡単にレスさせていただきます。
>一つは文献を非常に恣意的に読み込んだ結果、独善的で偏りのある見解を、
これぞ正統な立場であると思い込む事。仏教の堕落史観は、その代表的な一つでしょう。
そしてもう一つが、汎仏教的な立場に立った、教養としての仏教理解です。
>差異を遠ざけて全体を見渡した円満な理解を求める、これはより大きな排他性の苗床となります。
これを証する実例が、大正デモクラシーの中から生まれた教養的仏教理解を友松円諦が大衆化させ、それが全体主義国家による大衆宣撫の手先と化していった歴史の流れであると言えるでしょう。
>そして私は、現在の創価学会員が改善や改革と称するものの本質は、↑に示した前者から後者への切り替えに過ぎないのではないかと考えています。
差異を強調することと、差異を無化しようとすること、確かにともに排他性を生むこととなるのでしょう。大事なことはそれぞれの差異を尊重しあうことですね。創価学会が差異の強調を希薄化させていったとして、それぞれの差異の尊重に至れるのか、それが課題であると思います。禅や浄土教のあり方をも尊重する組織に至れるのであれば、よいのですが、そうであるには蓮祖を歴史上の一人物として相対化できなければならないのでしょう。難しい課題ではあると思います。
122
:
ひゃっきまる
:2006/01/21(土) 00:16:35
>>117
春田の蛙さん
ご心配おかけしました。お気遣い本当にありがとうございます。もう体調は万全です。
>罪悪感って、不公平だよね。
ああ、それは本当によく思いますね。でも罪悪感を感じる自分も利己的な目的で罪悪感感じてるんじゃないかとか、罪悪感感じることに罪悪感感じたりして・・・。うじうじしてるなって自分でも思いますね。心が弱いんでしょうね。
でも、春田の蛙さんの話を聞いて、借りを返そうとか、立派にならならなくては、とか、そんなに気張って思わなくてもいいのかな、と少し楽になりました。
僕はどこかで、「人は誰しも利己的だ」と思い込んでいるのかもしれません。まるで借金みたいな貸し借りの概念で「思いやり」を捉えるのは、人の善意を本当は信じていないのですよね。
あと、善意は「弱さの裏返し」、のように思っているところもあるような気がします。「強さの裏返し」である善意もきっと世の中にはあるのだと思いますが、僕は未だそういうものを本心では信じていないように思います。
>>120
>遠回りな道しか歩めない性質も、けして責められるべき事ではないと思います。
・・・なんというか、まさに僕の心に響く言葉です。というか、不器用にしか生きられない全ての人が、この言葉に救われるでしょう・・・。
123
:
salam
◆.P18/mYapQ
:2006/01/28(土) 16:13:16
>蛙さん、ひゃっきまるさん、乾さん
やっと期末試験も一段落し、レポートの合間に見に来ました。
虚弱トリオとしては、試験期間にインフルエンザにでもかかったら目も当てられないと普段以上に気をつけてました(笑。
さきごろ、2chを久しぶりに覗いてきました。
脱会スレも日蓮スレも見てきましたよ。どちらも、健在でしたね。おもわず、コテハンでレスも残してしまいました(笑。
日蓮スレでは、お二人が今まで話していなかった部分が書かれていて、そこからこちらに場所を移していたことが改めてわかりました。
>目指すべき宗教的ヴィジョンがあるとして、それは常不軽菩薩である
と乾さんがかかれており、ひゃっきまるさんも同意してましたね。
俺は以前、某小野氏の掲示板でカキコしてたとき、常不軽菩薩の話を聞き、俺の中で人格者というのはこれを理想として描いていたのかな、と思った記憶があります。
ただ、常不軽菩薩と自分が経験したり聞いたりした折伏がどうにも重ならなく、なぜ振舞いそのものに焦点を合わせないのか、不思議に思った記憶が蘇りました。
差異があること=個性があること、と俺の中では単純です。
常不軽菩薩の振舞いを自分に課そうとすると、必ずこのことを認めなければならないと思うのですが、某掲示板で聞いた限りでは自分の受けた行為(批判や反発)の正当化に使っているように思えたんです。
本来は、自分の物差しであるべきですよね。そういう意味で、乾さんやひゃっきまるさんとは、もちろん蛙さんとも、宗教観を越えた大事な部分の共通点を見いだせたようで俺は嬉しく思えるのですね。
善意ってそれこそ目に見えないし、してくれる相手の本当の気持もわからない。だから考えると難しいですよね〜。
でも、俺はこれも割り切って考えてしまいます。自分が自然と接していても自分に善意を向けてくれるのであれば、それは気がつかないところで相手が自分を善意ある言動と受け取ってくれたところがあるからだって。
逆に、騙されたり嘘を交えた対応を受けたことがわかったときは、結局その人との関係はその程度にしか築かれてしかいなかったんだと。
別に進んで騙されに行く必要はこれっぽっちもないんですが(笑。
ひゃっきまるさんは「人の為」というのを意識しすぎているのかも、とちょっと感じました。
本人からしたら、ふとした気まぐれみたいなのが善意なんではないかなって思いますよ。
124
:
乾闥婆
:2006/01/29(日) 01:10:35
>>123
salamさん。
>常不軽菩薩と自分が経験したり聞いたりした折伏がどうにも重ならなく
そうですね。常不軽菩薩に折伏を当てるのは真蹟遺文で言えば『開目抄』の「無智悪人の国土に充満の時は摂受を前きとす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者の多き時は折伏を前きとす。常不軽品のごとし」であると思いますが、この「常不軽品のごとし」は後世の加文であるといわれております。蓮祖が常不軽の姿を持って折伏とした真蹟遺文はないようです。
125
:
ひゃっきまる
:2006/01/31(火) 00:08:16
salamさんどうもです。
乾さん、salamさん、わめさん、こちらにメールを送ってもらえますか?
hyakkimaru49@hotmail.co.jp
ブログを開設したのでアドレスを送ります。
私生活のことが中心なので、知人にだけ教えておこうと思いまして。
126
:
salam
◆.P18/mYapQ
:2006/02/03(金) 04:07:13
>乾さん
そうなんですか。
大分前のことなので覚えてませんが、確か何かの一節を提示して説明してくれた記憶があります。
たぶん、おっしゃっている部分だったのではないかな〜。
>ひゃっきまるさん
了解しました。簡単な挨拶メールですが送信させてもらいますね。
127
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/03/08(水) 11:51:44
>ひゃっきまるさん
大変ご無沙汰して、すみません。
salamさんも仰っておられますが、私も嬉しかったです。メールありがとうございました。(深々)
>もう体調は万全です。
それは何よりです。季節の変わり目ですから、御身大切に、ご用心なさって下さいね。
>罪悪感を感じる自分も利己的な目的で罪悪感感じてるんじゃないかとか、罪悪感感じることに罪悪感感じたりして・・・。
んー…でも心が弱かったら、そんなしんどい、あまり自分で見たくない部分に目はいかないと思うよ。
それが自分の内側に見えるから、尚更BBSでのやりとりで、ひゃっきまるさんは誠実なんじゃないかな。でないと自分自身を許せないから。
といっても、多分ひゃっきまるさんの文脈で言う「自分には欠けてるんじゃないか?」って思える強さと、
私が↑の文脈で述べてる「ひゃっきまるさんには人一倍あるじゃない」っていう強さとは、同じ「強さ」じゃないでしょうね。
何かを切り捨てる事が出来るマッチョな強さと、切り捨てをよしとしない粘り強い強さって言ったら、単純化しすぎかもだけど。
でもさ、ひゃっきまるさん。個性の長所短所は裏表であって、長所を活かそうと思ったら、短所に思える部分も、受け入れなきゃ仕方ないと思います。
その短所をカバーし、その短所故に出来ない事をやるのは、頑張って完璧になったひゃっきまるさんじゃなくて、異なる個性の長所短所を持った、別の人の役目だと思うのです。
「これが正道だ、勝れた真っ当な生き方なんだ」って主張は、その生き生きとした見た目や力強さに憧れる事も含めて、
ひゃっきまるさんが「善意」というものに感じるのと同じか、それ以上の罠があると思いますよ。
かく言う私だってレスする時に、例えばsalamさんみたいに書けたらとは強く思うもの。
でも、私はsalamさんじゃないから、無理なんです。
多分salamさんも、私みたいに書けたらって思う事はあるかも知れない。
物事を的確に、適切な例示で説明してるって思ってるらしいから。
けどさ、的確で理詰めな文章は、痛いところを暴いて相手を追い詰めてる事でもある。
だから2chや他の掲示板で、とても他の人では会話が成り立たなそうな相手が、
salamさんには、まがりなりにもまともにレスを返したりしてるのを見ると、そんな対応が引き出せる事に憧れます。
128
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/03/08(水) 11:52:40
私が、単に自分に書きやすい文章を書いてるのと同じで、多分salamさんも殊更意識はしてないんだろうと思うんですが。
だから、私がsalamさんになる必要も、salamさんが私になる必要もないし、そんな無理はいらないんですよ、きっと。
自分自身については寛容な気持ちになりにくくても、こうして私とsalamさんを比べれば「どっちかが要らない」なんて思わないでしょう?
私から見たひゃっきまるさんとsalamさん、salamさんから見たひゃっきまるさんと私も、同じだと思います。
ひゃっきまるさんがご自身に感じておられてるものが、個性と割り切れないほどに苦しいとしたら、
ひとつにはそれがひゃっきまるさんの周りや、世の中の価値観とは、あまり相性が良くないからではないですか?
けれども、それでみんなが同じになったら、ひゃっきまるさんの個性が消えたら、ひょっとしてご自身は悩まなくて済むかもしれないけど、
何か決定的に救われないものが生まれます。それも、きっとひゃっきまるさん以外の方の中に。
>僕はどこかで、「人は誰しも利己的だ」と思い込んでいるのかもしれません。
私は、少なくとも自分は決定的に利己的だと思いますから、私に関しては当てはまってますね。
私は自分の中に、本当に美しい善意なんて見い出す事は出来ません。
けど、ダイヤモンドだけが宝石じゃないでしょう。
世の中の宝石が、ダイヤモンドだけでも困ります。
私の中にはガラス玉しか無くても、他の人は違うかもしれない。
私は善意を、むしろ他者の中に見ています。
自分の中に無いからこそ、それが利用されたり汚されたり、ねじまげられるのが腹立たしいのです。
そして、先に書いた個性の話と同じく、善意の裏側にあるものが弱さなら、
善意だけを認めて弱さを受け入れないのは不可能だと思います。
同じように、合理的思考の利点を受け入れるなら、その根本は「物事を疑う」ことにあるのだから、
善意を疑うことを悪であるかの如く、罪悪感をくすぐって非難するのも、また過ちだと思うのです。
これは、善意をねじまげて利用する、代表的な方法のひとつだと思いますし、
マインド・コントロールの問題を扱う時にも、事実そのように指摘されている事ですから。
129
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/03/08(水) 11:53:46
「善意」や「強さ」と名前を付けてみても、その内実は様々であって、一言の元にひとくくりに出来るものではありません。
生きた人間と、それは同じだと思います。
前後の文脈やそれを取り巻く行為によっては、真逆の名前である「悪意」や「弱さ」と
それを呼んだとしても、何ら違和感のない場合もあります。
裏側にある弱さの中身によっては、受け取らない事が互いのためである善意は、もちろんあるでしょう。
ですから、状況やそれに関わる人を抜きに、善意そのものを論じる事は出来ません。
それと同じ事をやろうとするから、例えば哲学における「真実」の定義などには、いつまでも一致が見られないのだと思います。
文脈を抜きにした言葉の定義には意味がないし、それは議論を迷走させる元ですよね。
ひとりの悪人を持って、人間全てを判断出来ないように、
問題ある善意の姿を、世界の善意全てに負わせる事は出来ません。
その上で、善意の陥りがちな罠について考える事は、人間の陥りがちな罠について考える事が、
人間である己れについて深く知る事であるように、
それは本来善意をより知る事であって、全否定には必ずしもならないと、私は思います。
仮に「人間」や「善意」を、「正義」や「信仰」に置き換えても、これは成り立つのではないでしょうか。
そして、これらを自分自身ではなく、他人に向けて用いればどうなるか?
自己省察に用いれば「そこまで考えなくても…」という方向に向かいがちな思考ですから、
他に対しては往々にして、安易なレッテル貼りの道具になってしまいます。
だって他人の内面は、外から見えないんですから。
つまりこういう事にも、長短両面はあるのだと思いますよ。
長短両面を知るという事は、限界を知るという事です。
そして、善意や強さや正義や信仰の、そして自分自身の限界を知るのは、それらを否定する事ではありません。
むしろ限界を知り、それらの力及ばざるを知ってこそ、初めて本当の意味で、心が外へと開かれるのではないでしょうか。
そうしてこそ、異なる善意や強さ、違う正義や信仰への、何より他者への本当の敬意と尊重が生まれるように思います。
130
:
ひゃっきまる
:2006/03/20(月) 00:45:22
>春田の蛙さん
ブログの方書き込みありがとうございました(^^)
>それが自分の内側に見えるから、尚更BBSでのやりとりで、ひゃっきまるさんは誠実なんじゃないかな。でないと自分自身を許せないから。
ネットっていうのは、相手に見せるのは文章だけですよね。だから、ぶっちゃけ言えば「良いところ」だけ見せることも可能と思います。リアルの僕よりは「ひゃっきまる」の方が理性的で誠実と思います。でも、リアルの自分が(弱さゆえ)虚飾に覆われているからこそ、せめてネットでは偽らぬ自分を出したい、という気持ちもあります。
>でもさ、ひゃっきまるさん。個性の長所短所は裏表であって、長所を活かそうと思ったら、短所に思える部分も、受け入れなきゃ仕方ないと思います。
そうですね。ありがとうございます。僕は小中高と本当にコンプレックスの塊みたいな性格だったのですが、そのとき思っていたのは、「だけどこんな自分だからこそ、弱い立場、苦しい立場の人間の気持ちがわかってあげられる」ということでした。これは今でも誇りであるし、この気持ちはいつまでも手離したくないと思っています。
>salamさんには、まがりなりにもまともにレスを返したりしてるのを見ると、そんな対応が引き出せる事に憧れます。
ああ、それ、本当にわかります(^^;
131
:
ひゃっきまる
:2006/03/20(月) 00:45:59
>そして、先に書いた個性の話と同じく、善意の裏側にあるものが弱さなら、
>善意だけを認めて弱さを受け入れないのは不可能だと思います。
「人は誰しも利己的だ」と思ってしまっているというのは、無意識の部分、刷り込みみたいなものであって、表面的な部分での判断力では、「善いところも悪いところもあるさ」と思っています。
まあ、「自分に厳しく、他人には優しく」が理想なのが、「自分に優しく、他人には厳しく」になっちゃっているという自分の状態を悲観して前のレスは書きました(^^;
>そして、善意や強さや正義や信仰の、そして自分自身の限界を知るのは、それらを否定する事ではありません。
>むしろ限界を知り、それらの力及ばざるを知ってこそ、初めて本当の意味で、心が外へと開かれるのではないでしょうか。
>そうしてこそ、異なる善意や強さ、違う正義や信仰への、何より他者への本当の敬意と尊重が生まれるように思います。
そうですね。まさしくそういうことだと思います。
ただ、知る、知らないに関わらず、他者とはじめから打ち解けて尊重しあえたら、どんなに良いかと思います。
蛙さんもどこかで「人の感情は合わせ鏡のようなもの」とおっしゃられていましたが、満面の笑顔でニコッと話しかけられたら、誰でも心を開くような気がするんですよ。浮浪雲のカメさんみたいに。そして、「善人」である自分を引き出すことが出来る。
相手を無邪気に善人と信じきれるというのは、本当に強い人だと思います。
常不軽菩薩のようになりたい、と僕が思うのは、こういう人間になりたいと思っているからでしょう。
僕は創価学会を全面的に否定するわけではないのですが、学会員の中にはこういう天性の明るさというか大らかさを持っている人もいて、それが信仰に培われたものか、その人本来の持ち味なのか、知りたいと思っています。
まあ、創価学会員とか関係なく、大阪のおばちゃんなんかにはこういう大らかな人は多いんですけどね(^^;
132
:
留守番
◆UlmatWmWgA
:2006/03/22(水) 15:57:20
ひゃっきまるさん、はじめまして。
板の座敷ワラシ、留守番です。
不軽菩薩って、どんな人だったんだろう。
留守番が考えた、現代の常不軽菩薩を思ってみますた。
「あなたの存在が大切ですよ」って
「あなたも仏になれますよ」って
誰かに解らせるには、
その人に向き合う誰かが、その人を大切にして差し上げることが
一番有効なんじゃないかって。
大切にって言うと大袈裟だけど、とにかくちゃんと相手の存在を認め、向き合う事。
その人の生きてきた過程で、周りの人みんなに大切にされなかったとしたら
その人はきっと、「自分はこの世界で大切な人間ではないのかも」って思うと思います。
「あわせ鏡」っていうことも、そういうことなんじゃないかなぁ…
誰かの瞳に映る自分の姿が、もしも誰からも邪険に扱われ、責められるだけの存在だとしたら、
きっとその人は、自分のことを大切になんて思えないし、
ましてや仏になれるなんて思えやしないんじゃないかなーって。
んで、自分自身の中にあるモノを大切に思えたら
他の誰かの中にある、その同じモノだって大切に思えるでしょう。
だって同じモノなんだもん。
「命」であれ「心」であれ、なんだっていいんだけど。
だから常不軽菩薩って、
ほんものの人間だったとしたら、きっと、自分に石を投げ、棒で打った増上慢さんたちのなかに
自分と同じものを見ていた人なんじゃないかなって思います。
ひゃっきまるさんが「弱さ」と呼ぶものも含めて。
でも人間だったら、「常」じゃ絶対無理だろうなぁw
>(弱さゆえ)虚飾に覆われているからこそ
ていうのも、どうして虚飾に覆われていなきゃいけないのか?
その飾りは本当に自分で身につけたものなのか?
そのまんまのひゃっきまるさんじゃあかんよって、誰かや何かの思想から、言われていはしなかったか?
っつーかそもそも、「弱さ」だと誰がジャッジするのか?
って、時間のあるときにでもご自身に尋ねてみられたらいいのではと思います。
そうしたら、それが本当に弱さゆえだったのか、そうではないのか、解ると思うんです。
(厳密に言うと、弱さとか強さって、実体のないものだと個人的には思ってます。
人間は、実体のないものに名前をつけるのが得意だから。
>「善意」や「強さ」と名前を付けてみても、その内実は様々であって、
>一言の元にひとくくりに出来るものではありません。
と春田の蛙さんも仰ってますが。)
飾ったり偽ったりするのは、多分に周りの状況がそうさせているってこともあるんじゃないでしょうか。
こんなにうじゃうじゃワラワラいる、たくさんの人の中で生きていかなきゃいけないのだから。
すいませんです。
どーにもこーにも気になってレスしちゃったけど、
スルーで大丈夫ですw
ずっとロムってて、なんかひゃっきまるさんが弱い人には見えなかったので、って伝えたかっただけなんだけど。
いきなりのレス、失礼しました。
春田の蛙さんが不在の時の、お留守番ですから。
ひとり上手なんだからー。
もうw
(あ、ちなみに、自分は退会2世です。)
133
:
ひゃっきまる
:2006/06/05(月) 00:54:50
>>132
留守番さん
超遅レスすいません(^^;
だいぶ前に読んではいたのですが、なんとなく。
留守番さんは名前はよく見るのですが、レスするのははじめてですよね。
>「あなたも仏になれますよ」って
>誰かに解らせるには、
>その人に向き合う誰かが、その人を大切にして差し上げることが
>一番有効なんじゃないかって。
そうですね。僕はリアルだと一番苦手なとこかもしれません。
よく「冷たい」って言われますね。
自分はそういう態度を他人に求めるくせにね。
エネルギーが低下しているときって、自分がしてほしかったことを人にしてあげよう、って思うよりも、自分が感じた辛い思いを他人に味合わせてやろう、って思ってしまうようですよ。
僕って嫌な人間だな(^^;
>だから常不軽菩薩って、
>ほんものの人間だったとしたら、きっと、自分に石を投げ、棒で打った増上慢さんたちのなかに
>自分と同じものを見ていた人なんじゃないかなって思います。
はっとさせられましたよ。この文章に。
僕はなんとなく不軽菩薩って、聖人君子みたいなのを思い浮かべてたのかもしれません。
でももっと、人間人間してる感じのほうが本当ぽいです。
>っつーかそもそも、「弱さ」だと誰がジャッジするのか?
>って、時間のあるときにでもご自身に尋ねてみられたらいいのではと思います。
>そうしたら、それが本当に弱さゆえだったのか、そうではないのか、解ると思うんです。
「自分が弱い人間だ」って思いは、すごく根深いものなのです。
根本的には意志の弱さを指しているのかな。
「やらなくちゃ」って思ったことの半分もやれてないことが多いから…。
「きっと死ぬとき、後悔するんだろうな」、なんていつも考えてしまいます。
でも留守番さんが、僕が弱いようには見えない、って言ってくれた意見は、大事にしたいと思います。だって「それでも僕は弱い人間なんです」と言い張ってしまったら、留守番さんの考えを一方的に否定することになってしまって、そんなのは良くないなあ、と思ったので…。
僕は小学校の頃、「僕は大人にはなれないかもしれない」とか「なってもろくな大人にはきっとなれないだろう」なんていつも考えていたものですが、その頃の僕が今の僕を見たら、「まあまあちゃんとした人間にはなってるじゃん」と安心すると思うのですよね。きっと。たぶんその程度には僕はまともな人間になれたのだと思います。
なんかまた、「かまって。僕を見て」オーラ全開のレスしてしまいましたが、にも関わらず親身なレスしてくれて本当にありがとうございました!
134
:
留守番
◆UlmatWmWgA
:2006/06/05(月) 22:55:31
ひゃっきまるさん、レスありがとうございます。
いや、本当に、蛙さんが体調が悪い時とか、お忙しい時なんかに、
少しでもお役に立てればと思って勝手に留守番してるだけなんですよ。
なので、お気遣いなく!
適当にあしらってください。
>でも留守番さんが、僕が弱いようには見えない、って言ってくれた意見は、大事にしたいと思います
受け取ってくださって、ありがとうございます。
自分で自分を評価するのと、他人からはどう見えるかということって、
大概、違いますもんね。
>だって「それでも僕は弱い人間なんです」と言い張ってしまったら、
>留守番さんの考えを一方的に否定することになってしまって、
>そんなのは良くないなあ、と思ったので…。
いやいや、良くなくは、ないですよ。
でも、そういう繊細なお心遣いはとても嬉しく感じました。
わたしにとって、ここで大切なのは、
「ひゃっきまるさんは、弱い人間なのか?」ではないんです。
「ひゃっきまるさんは、ご自身を弱いと感じている」このことなんです。
(↑この2つの違いは、本当に大切なのです)
んで、留守番は、ひゃっきまるさんが弱い人間だとは思いませんが、
ひゃっきまるさんがご自身を弱いと感じている、そのことに関しては、共感できます。
だって自分も、そう思うことが多々ありましたから。
>「自分が弱い人間だ」って思いは、すごく根深いものなのです。
>根本的には意志の弱さを指しているのかな。
>「やらなくちゃ」って思ったことの半分もやれてないことが多いから…。
うーん…思うのですが、どうしてやれてないのかっていうことが問題なんですよねきっと。
1.「やらなくちゃ」ということが、多すぎる。
2.「やらなくちゃ」ということを、本当はやりたくない。
3.それは本当は、やらなくてもどうにかなることだ。
4.いつかやろうと思うけれども、今はやらない。
5.やらない自分が、本当は好き。
6.やってみて出来なかったらどうしよう!と結果が気になってできない。
7.「やらなくちゃ」ということが、自分のキャパを超えている。
などなど…
やれていないことには、必ず理由があると思うんです。
意志の弱さ以外にも。
それに、「どうして、やらなきゃいけないのだろうか?」って突き詰めて考えてみると、結構あいまいな理由だったりしますし。
もしかしたら、ご自身に物凄い負担を課していはしないだろうかって
ちょっと気になったもので…。
留守番的には、「弱い」という言葉よりも、「未熟」という言葉を使うほうが好きです。
「弱い」だとなんか、評価が入ってますけど、
「未熟」は状態をあらわし、これからの可能性もあるような気がします。
んで、自分は本当に未熟だといつも感じています。
でも、いろいろ挑戦していくことによって、成長できたらなぁって思っています。
135
:
留守番
◆UlmatWmWgA
:2006/06/05(月) 22:57:17
なんだか、先日ちょっとリンクするような思いを味わったので、書いてもいいですか?
時どき、お手伝いに行かせていただいている施設でのことなんですが
手足が不自由で、発話も上手くできないAさんという方がいて、
そのAさんに他の来所者の方(Bさん)が失礼なことを言ったんですね。
そうしたら、Aさんは車椅子のままBさんにぶつかっていきまして…
まぁ軽くぶつかっただけなので、大したことはなかったのですが。
その時に、思ったんです。
「Aさんは、手足も上手く動かないし、言葉で思いをぶつける事も出来ないから
ああいう形で感情を表現し、ああいう形でBさんに思いを伝えた。
自分も、今までの人生で、そんな風にガシャンと相手に無言でぶつかって行くような伝え方をしたことが、たくさんあったなぁ」って。
そういう時、わたしの心は、車椅子の状態だったのかもしれないって。
上手く動かず、上手くしゃべれないような、心の状態だったんじゃないかなって。
車椅子の状態まではいかないにしても、心って思うようには自由に動かせないもんですよね。
癖のついた方向へ、勝手に動いてしまうものです。
そういう意味で、ひゃっきまるさんのお話には、留守番にも共感するところが多々あります。
でもその癖は、自分で気づけば直せるものでもあります。
>よく「冷たい」って言われますね。
個人的には、「冷たいのはいけない」という価値観は持っていないので
冷たくたっていいじゃないですかーと思っています。
不軽菩薩についても、考えてはみましたが、
彼のようになりたくはないし、なれるとも思っていませんのですよ。
お手本と思うことはありますけど。
不軽菩薩のようになるべきだ、なんて誤解させてしまったなら、すいませんでした。
「冷たい」と言われるような態度をとってしまうのは、思いの伝え方の問題で、
(他人との交流の仕方の問題)
ひゃっきまるさんの人間性とは別の分野のことです。
よくみなさん、それをごっちゃにしてしまうことがありがちなので。
「わたしは、あなたを冷たい人だと思う」
「わたしは、あなたが向き合ってくれなかったことに対して、冷たいと思う」
前者は存在への評価、後者は行動への評価です。
これをごっちゃにしてしまうと、大変に息苦しくなったりしますので。
こちらこそ、本当に丁寧なレス、ありがとうございました。
蛙さんなら、もっと違うアプローチをなさると思うのですが。
留守番の書き込みは、蛙さんが帰ってくるまでの暇つぶし程度に
読んでくだされば幸いです。
ですので、レスは本当に、お気になさらず。
お元気かなぁ…、蛙さん。
お忙しいだけならいいんですけど。
136
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/06/12(月) 20:08:07
すみません、私も超遅レス…もはや恥レスですね。(;^_^A
返したい内容がアレやコレやあるのですが、まずは一番新しい内容から。と、その前に横レスですけど…
>>135
留守番さん
>蛙さんなら、もっと違うアプローチをなさると思うのですが。
>留守番の書き込みは、蛙さんが帰ってくるまでの暇つぶし程度に
>読んでくだされば幸いです。
そんなに謙遜されなくても。(汗)
立派に此所を運営して下さってるじゃないですか。
第一、私の書く事がいつも正しい訳でも、的確な訳でもないんだし。
留守番さんは留守番さんの、思った事や感じた事を書いて下さるのが、最善かつ私にとっても一番有難いご助力ですよ。
それに留守番さんが居て下さって、私だってどれほど気持ちが救われてるか分かりません。
いつも心を砕いて頂いて…その事に、まず感謝させて下さい。ありがとう。m(__)m
> ひゃっきまるさん
>だいぶ前に読んではいたのですが、なんとなく。
ああ、それは分かります。私もそれで時間が経って、そのままレスしそびれる事もありますから。(汗)
それで…ええと、ぶっちゃけて伺うんですけど、ひゃっきまるさんが「やらなきゃいけない」「やれてない」事って、
そのひとつは、退会も含め創価学会について自身にきちんと整理をつける事、ですか?
今のまま、あれこれ言ったり組織の批判や信仰について述べるのは、何だか後ろめたいとか、卑怯なんじゃないかとか。
…そうだとしたら私も、そういう風にひゃっきまるさんに思わせた、追い詰めた一人なんでしょう。申し訳ないです…
思うのですが。例えば「生きる」ということを「みんな生きているから」という理由で、同じには考えられないですよね。
にも関わらず、思考は実際こういう悲劇も生みます。阪神淡路大震災があったでしょう? あれで亡くなった人の事、うらやましいって思った子供が居たんだそうですよ。
自分はどう生きていって良いか分からない、生きる値打ちがあるかも分からない、そこへテレビで震災のニュースを観て、「うらやましいな…」って。天災に「自分の命」を決めてもらった訳だから。それで、「そんなこと考える自分は、何て最低なんだろう…」って、また悩む。
確かにひどいかもしれない。私も聞いた時に一瞬カチンとこなかったといえば嘘になる。しかし最低だろうがなんだろうが、「うらやましい」と思ったもんは思ったんだからしょうがないです。
137
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/06/12(月) 20:08:56
それに本人(あるいは周り)は、「こんな最低の事を思い付くのは自身の人間性に問題がある」とも考える訳だけど、よくよく心の辿った道筋を追うと、確かに自然とそこに行き着くんですね。
自分の在り方に思い悩む、苦しい、苦しければ楽になりたい、別段当たり前の自然な感情です。
罠は、その事がその苦しみが存在しないあらゆるケース、それを偶然目にした場合に何かを思ったり感じたり、考えたりする事を、人間には避けられない点にあります。柔らかく未熟な心ほど、正直な気持ちに歯止めは効かない。
ですから当然、どんな経緯であれその苦しみが存在しないケース――天災による残酷な死に対しても、とっさの心の働きとして感情は動いてしまう。
苦しい時には人間普通じゃない気持ちになるのも当たり前ですから、ホントは「こんなバカな感情を抱くなんて、よっぽど自分も追い詰められてるよな…」と流せれば良いんですが。悪循環の、よくあるループのひとつです。
そう思う理由や経緯は様々でしょうが(中には同情出来ないケースもあるでしょう)、自己の在り方に思い悩む、こういう思考は、単純に劣等感とは言えないと思います。
自分は駄目だと思う心の底で、必死に駄目でない部分を探して、そこにすがる気持ちもある。コンプレックスというのは、本来複雑なものです。
ですからそれを率直に見つめて苦しむ人ほど、自分の美徳を見て掛けられた言葉にも、素直に救われる事が出来ない。「そういう言葉を欲しがっている自分」をも自覚しているからです。
そのように追い詰められた思考は、こういう風に発展する事もあります。「自分は自己の在り方に思い悩んでるけど、そういう疑問さえ持たずにただ生きて死ぬ人よりはマシだ」
そう思って浮かびあがりかけた気持ちは、次にはやっぱり善悪の倫理や価値観によって、打ちすえられて落ち込む事になる場合が多いでしょう。
つまるところ、最初のループの場合も後のケースも、悪循環の理由は明白です。それぞれ要素や環境の異なる人生を、同一の条件を仮定しつい結び付てしまった点にある。こういう思考に本当の出口はありません。
つまり異なる立場の無関係な、それぞれ比較不可能な生きざまを、同じ「生きている人間」として見てしまう過ちを
本人も周りも犯してしまう。そうなってしまった要因は抜きにしての、その感情・思考自体の善悪の話にこじれてしまうのだと思います。
138
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/06/12(月) 20:13:41
そもそも最初にあげた極端な例だって、震災の犠牲者云々から切り離してみれば、「私は自分がどう生きて良いか分からない。生きる値打ちすらないのではと思うが死ぬ勇気もない、本当に駄目な人間なんです…」という悲鳴でしょうし、これだったら、別に倫理的に責められるような事じゃないです。
「そう思ってしまう、考えてしまう自分」をありのまま、優劣という比較抜きに受け止めるのは、なかなか難しいという事ですね。
長々と、ひゃっきまるさんとはあまり繋がりのないケースについて述べてしまいましたが、ひゃっきまるさんの目指すような形の「決断」を、もしも違う立場の人が成した「決断」と比較したら、これと似たような悪循環に陥る可能性はあると思います。
たとえば、外的なにっちもさっちもいかない要因での脱会についての悩みを、いっそ自分もそうであったら決断出来ると思ったりすれば最初の例の、
そういう要因無くして退会するのが真の決断だと思って自分を奮い起こせば、後者の思考の罠に発展して、他者からの批判や自己嫌悪に繋がる可能性もあるのではないでしょうか。
少なくとも、その決断が出来ない自分を責めてはしまう。全ての他者を尊重しつつ考えを進めようとすれば、そのあまりにも拠り所の無い困難さにも、戸惑うのではないかと思います。
だって人間は(少なくとも私は)、不安を抱えている、自分を見失いそうな時ほど、下世話な言い方ですが「アイツよりマシだ」という考えにもすがりたくなる、それが正直な心情だと思うのです。
ですから様々なケースでは、同じ宗教団体の二世三世と思えばこそ、返って相手の有り様が許せない、無理に話し合えば互いに傷つく場合も多いと、私は思います。
(私も含めた)アンチのネットでの発言や指摘も、今までひゃっきまるさんの思考を追い詰めてきた大きな要因であるでしょう。
創価学会は規模の大きな団体です。そのカルト性がもたらす弊害の種類も程度も、地域差や個人差は当然ある。公平を期してメリットについても述べるなら、これにも同じ事が言えます。
二世三世さんにはあまり当てはまらない話ですが、カルトからの救出カウンセラーの体験でも、本来の当人の環境があまりに劣悪なため、
これならまだしもカルト内に留まる方がさしあたっては当人のためだと、救出を断念するケースは語られています。
139
:
見ちゃイヤン♪
:見ちゃイヤン♪
見ちゃイヤン♪
140
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/06/12(月) 20:20:50
(※
>>139
は投稿ミスです。すみません。m(__)m)
様々なカルトからの多様な人々の救出に携わった経験豊かなカウンセラー(たとえば「マインド・コントロールの恐怖」の著者スティーヴン・ハッサン)の、そうしたケースでの判断を否定する気には、私はなれません。
しかし「カルト被害者」という立場で一方的に理解しようとすれば、こうしたケースは些か受け入れ難いのではないかと思います。
さらに述べるなら――これはいずれ強信な人が迂濶に突っ込んで来た時に教えて差し上げようと考えていたのですが、私がよく例にあげる浅見定雄さんの以下の論評についてです。
http://www.toride.org/asami/cult.htm
一見、創価学会をカルトだと批判している事で、学会に敵対的な論評に感じられると思います。
しかし事実は全く異なり、実は浅見定雄博士は宗教学者の中でも、新宗教については最も寛容で好意的な論をお持ちの人物です。
創価学会を含む新宗教コミュニティの在り方にも、特に高度成長期における意義を認め、オウム事件の時に与党が創価学会牽制の目的で宗教法人法改正に動いた時にも、それへ批判的なコメントをされていました。
さらに靖国神社国家護持の動きが盛んだった昭和40年代、各宗教団体が連携して反対運動をする中で、謗法同座を嫌う観点からか孤立して反対運動を行う創価学会に理解を示され、現地の学会員の運動に協力すらされています。
当時の首相宛てに提出された反対意見書にこそ名を連ねていないものの、創価学会も独自にちゃんと反対運動を行なっていた事を、自著のその話題に触れた箇所でわざわざ触れておられるほどです。
つまり先にあげた浅見氏のご指摘は、新宗教全般にも創価学会の信仰や組織についても、内実をよく知り『最大限好意的な見方』をした上で、「カルトという呼び方を認めざるを得ない」との論評な訳です。
創価学会の利点も信仰も、きちんと認め好意的に評した上での指摘であって、むしろ「創価学会はカルトとは呼べない」と一見中立な意見を述べてる宗教学者の方が、よく知らないから当たり障りの無い意見を述べただけの場合もあります。
141
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/06/12(月) 20:22:41
しかし、一般的には逆にサンプルとなるケースが少ないほど、人間はそこから極論を導く傾向が強いでしょう。そして、その極論に当てはまらないケースを攻撃します。
カルトへの批判が、時に批判対象であるはずのカルトの主張と、あたかも鏡写しの双子のような形に陥る一因はここにあります。
「目の前の事実を受け入れず、自己の信ずる主張に忠実」な点で、似てしまう訳です。特殊をもって一般を語るエピソード主義は、
極論である故にわかりやすい。その罠は、なにも特定のカルトと呼ばれる団体の中にだけ存在するのではありませんから。
ひゃっきまるさんが、もしそうした圧力を感じた事があるなら、それはこうした傾向と共に、「創価学会の二世三世」という条件で、全く環境や状況の異なる方の人生をも、ご自身の在り方と結び付けるよう、いつしか強いられた点もあるのではと思います。
「生きる」という事には、それぞれに固有の様々な苦難が伴うのであって、異なるそれらを比較して傷付けあっても本来は仕方ない事。
同様に、創価学会の有り様が生み出す苦しみも(あるいはメリットも)多様な訳ですから、それによる悩みを比較し程度を計って、傷付けあっても悪循環に繋がるだけではあります。
当事者のそれはやむを得ませんが、少なくとも外部の私のような立場の人間が、安易にそれを煽ったり責めたりしないように、
本当は気を付ける必要があるんでしょう…私には、ひゃっきまるさんがこれまでそうした痛みを受けてきたように思えます。
142
:
留守番
◆UlmatWmWgA
:2006/06/19(月) 20:13:11
こんばんは。
こちらこそ、蛙さんやここのみなさんに、感謝です♪
ありがとうございます。
ただの留守番なのにお声をかけてくださる方がいて、留守番するのも寂しくなかったです(^ー^)
>その前に横レスですけど…
いや〜、そもそも、横レスしたのは自分ですので(笑)
>立派に此所を運営して下さってるじゃないですか。
運営なんて出来てませんです(;´▽`A``
うろちょろしてただけで。
自分も相当なドアホなので、蛙さんのレスに励まされたひとりでもあります。
んで先日、やりたい事を書き出して、達成度を確認してみました。
そうしたら、なんと!10%ぐらいしか、まだ出来てないんですよ(笑)
だからひゃっきまるさんに偉そうに言えないっていうことが発覚!というオチがつきました。
うーん…
(でも凹みはしませんけど。今は全然まだ過程だし、10%出来たことだって、自分には奇跡みたいなもんです)
143
:
殿舎男@秋葉系
:2006/07/12(水) 18:50:28
>>1
たしかに脱会という言葉の方が響きが悪いですね。
144
:
殿舎男@秋葉系
:2006/07/12(水) 19:07:47
学会の辞めさせないための
イメージ戦略の一環なのかもしれませんね。
145
:
ひゃっきまる
:2006/07/20(木) 09:40:11
>留守番さん
返事遅くなってすみません(^^;
>わたしにとって、ここで大切なのは、
>「ひゃっきまるさんは、弱い人間なのか?」ではないんです。
>「ひゃっきまるさんは、ご自身を弱いと感じている」このことなんです。
なるほど。当たり前のことかもしれないけど、目からウロコです。
僕は、「客観的に言って実際弱いのか?」という視点で硬直した見方になっちゃってるんだと思います。
>うーん…思うのですが、どうしてやれてないのかっていうことが問題なんですよねきっと。
なんか1〜7の理由の全てが当てはまっているような…(^^;
でもたぶん、実際の自分像と、理想の自分像のギャップが激しいんだと思います。
あと、根本的に欲張りってのもあります。
少し冷静に、自分を分析してみようと思います。
>留守番的には、「弱い」という言葉よりも、「未熟」という言葉を使うほうが好きです。
僕は、自分の根本的な性質として「弱い」というのがあって、それは克服不可な感じがしています。そんなの思い込み!って思わないでもないですが、そういうのとうまく付き合っていく必要があるんだろうな、と思っています。
でも未熟っていう概念も併用していて、それを使うときはやっぱり将来的な成長を見越して使っていますね。
>そういう時、わたしの心は、車椅子の状態だったのかもしれないって。
>上手く動かず、上手くしゃべれないような、心の状態だったんじゃないかなって。
ああ、すごくよくわかります…。
>「わたしは、あなたを冷たい人だと思う」
>「わたしは、あなたが向き合ってくれなかったことに対して、冷たいと思う」
>前者は存在への評価、後者は行動への評価です。
そうですね。これはわかっているつもりだけど、なかなか難しいです。
僕も人に対して、「冷たいなあ」って思うことがあります。それは、相手の行動に対する期待があるから、そういう反応をしてくれないことに不満を持つってことだと思います。
コミュニケーションのとり方で相手とギャップがあると、けっこう辛いです。
最終的には相手を信じるしかないって思うのですが、そういうふうに感情が処理できないのは、僕が相手に依存しているからではないかと。未熟ですね(^^;
146
:
ひゃっきまる
:2006/07/20(木) 09:40:46
>春田の蛙さん
>ぶっちゃけて伺うんですけど、ひゃっきまるさんが「やらなきゃいけない」「やれてない」事って、
>そのひとつは、退会も含め創価学会について自身にきちんと整理をつける事、ですか?
確かにそういうのがなくはないです。いつかはやろうと思っているだけでも心の負担になりますから・・・。でも、それよりももっと実生活で必要でやらなきゃいけないと思っていることがたっくさんあるので、正直、創価学会に関しての「やらなきゃいけない優先順」は最下位近くです。とりあえずこのことに関しては、少なくとも感情面でのケリはついていますし。
>柔らかく未熟な心ほど、正直な気持ちに歯止めは効かない。
>ですからそれを率直に見つめて苦しむ人ほど、自分の美徳を見て掛けられた言葉にも、素直に救われる事が出来ない。「そういう言葉を欲しがっている自分」をも自覚しているからです。
>つまるところ、最初のループの場合も後のケースも、悪循環の理由は明白です。それぞれ要素や環境の異なる人生を、同一の条件を仮定しつい結び付てしまった点にある。こういう思考に本当の出口はありません。
>つまり異なる立場の無関係な、それぞれ比較不可能な生きざまを、同じ「生きている人間」として見てしまう過ちを
>本人も周りも犯してしまう。そうなってしまった要因は抜きにしての、その感情・思考自体の善悪の話にこじれてしまうのだと思います。
上記のことはすごくうなずきました。ほんとになんで蛙さんって人間の感情の機微がここまでわかるんですかね(^^;
二世三世問題に関してもほんとそうだなあ、と思いながら読みました。まあ、僕も蛙さんがそういう考えを持っているとわかっているから、安心してここに書き込めるわけですが。
>カルトへの批判が、時に批判対象であるはずのカルトの主張と、あたかも鏡写しの双子のような形に陥る一因はここにあります。
>同様に、創価学会の有り様が生み出す苦しみも(あるいはメリットも)多様な訳ですから、それによる悩みを比較し程度を計って、傷付けあっても悪循環に繋がるだけではあります。
こうしたことはアンチの世界に足を踏み入れたときから感じていたことではありますが、とても整理された文章で読むことができて頭がすっきりしました。「心のくせ」のようなものはなかなか解決できないですよね…。
147
:
ひゃっきまる
:2006/07/20(木) 09:41:33
>殿舎男@秋葉系さん
はじめまして(^^)
よく考えたら脱会って普通の言葉だし、退会の方が退転と同じ漢字使ってるんで、なんで脱会の方が悪い気がするのか不思議ですね。
「脱ける」って言葉自体が「脱落」「逃げ」のニュアンスを含んでいるのかもしれませんね。
「脱北」なんて言葉もありますね。
148
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2006/08/01(火) 08:51:21
>>147
>よく考えたら脱会って普通の言葉だし、退会の方が退転と同じ漢字使ってるんで、なんで脱会の方が悪い気がするのか不思議ですね。
確かにそうですよね。解脱の意味だってありますし、それをもたらす益を指して、釈迦の教えを脱益とも呼ぶのですから。
きっと、それぞれが自分のイメージで、気にならない方を使うのが良いのではないかなと思います。
ひゃっきまるさんが言われているような、「自分としてはこう思うから、自分はこっちを使う」だったら全く問題ないと思いますよ。
「言い方を統一しよう」みたいな意見が、何故か一部の方は好みらしくて、時折2chの脱会スレでも挙がりますが、
これに限らず、違うのが当たり前な人それぞれの感じ方をひとつにまとめよう、みたいな雰囲気には、抵抗を感じる事があります。
単なる感情論というか、根っこは単に、そうなれば自分がすっきりするだけだろって私は思っちゃうんですけど、
この『感じ方の統一』に都合が良いのがイデオロギーであって、だからこそ、
イデオロギーに添った意見を言う時には、人間は陶酔出来るんだろうなと思います。
大袈裟なイデオロギーでなくても、例えば自分がオリンピックに夢中だからと
「熱狂出来ないのは愛国心が足らない」みたいに言っちゃうのは、これに当たるかなと思います。
要は単なるジャイアン理論というか、「俺がこう感じるんだからお前も合わせろよ」
だったりするんですが、一応それなりには理屈がくっつく場合が多いから、自分では中々傲慢さに気付けない。
根っこは感情論だって、自覚するだけでもだいぶ違うような気がしますが…
自分が冷静になる前に、大抵は相手を「洗脳されてる」とかって決めつけてしまうから、困りますね。
イデオロギーの陥りがちな罠だと思います。反対者はみんな馬鹿に思えるんですよね…知らないから反対してるだけだと。
ひょっとしたら、自分の知らない事を相手は知っているのかも?とは、まず考えないのが、よくある困ったパターンのひとつだと思います。
149
:
ひゃっきまる
:2006/08/04(金) 00:00:12
>蛙さん
わかるわかる(^^;
よく考えたら小学校の教育ってそういう考え方が正しい、っていうの多かった気がしますよ。
でも、あんまり個人主義すぎてもダメなんで、要はバランスなのかも知れませんね。
複数の考え方が持ててたら、状況に応じて使い分けることもできるのかも。
そういう意味で外国行ったり、全然違う環境で生活するのは大切かな。
周りの人がみんな同じ価値観の人ばかりだったら、それが当然だって思うだろうし。
150
:
ひゃっきまる
:2007/04/30(月) 10:17:24
私事なんでこっちに。
こないだの選挙の話なんですが、それまでわりと好印象もっていた学会員の幹部の方に、何度も電話かけられたり、訪問されたり、あげくの果てには選挙日に家の前に張られたりして、ついにぶち切れてしまいました。
というのは、実は幹部の方は同じ職場なのですが、僕がそのころ仕事でとても忙しいというのを知っていたはずだからなのです。また、その方とはけっこう僕の考えも打ち明けていて、「いずれは脱会したい」ということ、「創価学会や公明党があまり好きではないこと」なども言っていたからです。
投票した後は電話を下さい、と言われていたので、公明党に投票後、電話をし、その電話口で言ってしまいました。
「今回は約束だから公明党に投票しましたが、僕は本来公明党や創価学会はあまり好きではないのです。今回のことでとても嫌な気持ちになりました。今後、電話や訪問は一切しないでください」と。
幹部の人にここまで激しいことを言ったのは初めてだったかもしれません。なんだかんだいって創価学会とは仲良くやりたいという気持ちもあったんです。
怒りの勢いもあったと思います。
しかしようやくこれで少しすっきりして、少し前に進めた気もします。
151
:
乾闥婆
:2007/04/30(月) 11:37:56
ご無沙汰しております。
ブログをはじめました。不慣れなものですから至らない部分も多いと思いますが、お読みいただいて、こちらに出入りされている方の参考になれば幸いです。
http://kiukiu.cocolog-nifty.com/blog/
152
:
ひゃっきまる
:2007/04/30(月) 23:38:12
>乾さん
お久しぶりです!(^^)
「日蓮って」は落ちてしまいましたね…! まあ時間の問題でしたが、思い入れのあるスレだったのでちょっとしんみりしてしまいました。
ブログ拝見しました。乾さんらしく読みやすくてよいです。今後もときどきよらせていただきます。
153
:
乾闥婆
:2007/05/01(火) 00:27:52
ひゃっきまるさん。こんにちは。お久しぶりです。
選挙がらみで嫌な思いをされたようですね。お察しします。
ブログを読んでいただいてありがとうございます。仕事が忙しく、なかなか更新できないと思いますが、よろしくお願いいたします。
日蓮ってスレッドはまだ落ちていないようですよ。
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1133533873/l50
掲示板で熱く書き込むようなことはめっきりなくなりました。
なんだか懐かしいですね。
154
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/05/04(金) 17:05:51
>>150
ひゃっきまるさん
いえ、私事大歓迎です。
というか、そもそも私も含めて、皆さんの私事で成り立ってるサイトですもん。ここは。(^^;
それに、頂いたのは非常に意義深い内容だと思います。
ある意味で、ひゃっきまるさんにとって大切なターニングポイントだったのではないでしょうか。
そうしたご報告を頂ける場所として、ご信頼頂いた事を勿体無く思います。
まさに、ご自分の意思をきっぱりと主張されたのですね。
それも感情的に言いにくかったお相手に…とても立派だと思います。
怒りの勢いだったかもと仰いますが、そのような勢いがなければ、
人間は言えない事もあると思います。それが普通だし、当たり前です。
そうして前に進む「後押し」となるのが、健全な感情の働きではないでしょうか。
理屈だけで考えていても、いつまでも前には進めませんから。
ひゃっきまるさんにとって、大切な一歩だったと思います。そのように感じます。
何かひとつ、惜別とともに解き放たれたように、文章からは感じました。
>というのは、実は幹部の方は同じ職場なのですが、僕がそのころ仕事でとても忙しいというのを知っていたはずだからなのです。また、その方とはけっこう僕の考えも打ち明けていて、「いずれは脱会したい」ということ、「創価学会や公明党があまり好きではないこと」なども言っていたからです。
なるほど…それを分かっていて、状況も知っていてというのは何とも…
まして同じ職場で、信頼して様々な事を打ち明けられていれば、尚更やりきれません。
例えばこれが逆に、私がひゃっきまるさんに対して、これまでの話を無視して
アンチの見方を押し付けようとしたり、日蓮をこきおろすように強いたりしたらどうか?
つまりはそれと同じで、それまで知り得た経緯や状況を無視するというのは、
相手が向けてくれた信頼を裏切る事に等しいと、私は思います。
155
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/05/04(金) 17:35:21
>>150
>幹部の人にここまで激しいことを言ったのは初めてだったかもしれません。
怒りに後押しされたと恥じる必要も、また「遅かった」とか「今更」などと感じる必要も無いと思います。
自分に必要な事が、不快な体験だったかもしれないけれど
必要なタイミングで巡ってきた…そう考えるしかないかも知れない。
ですが、仲良くやりたかった相手との関係が、自分の考えていたような関係ではなかった。
少なくとも相手にとっては違っていた時のやるせなさは、私もよく分かります。
本当の事が分かるという意味では、囚われていた場所から進む事に繋がりますし、
ごく稀に相手との真の関係にも繋がりますが、やはり何ともやるせない気分の場合が多いです。
非常に深い憤りや、落ち込みや人間不信を感じる事もありました。これは私の場合ですが。
>なんだかんだいって創価学会とは仲良くやりたいという気持ちもあったんです。
皆さん大なり小なり、本音はそれで悩まれる訳ですからね…仲良くやれるなら、そりゃそれに越した事はないです。
まして、ちゃんと自分の話を聞いてくれて、話が出来ていれば尚更ですよ。
けれど、だからこそそういう事があれば、余計に思いが爆発するのではないでしょうか?
多忙な時にそういう事が巡ってきて、大変でしたね…
実は、私も疲れがたまっていたのか、風邪と胃腸炎にやられました。流行っているそうです。
ですからひゃっきまるさんも、疲れには気をつけて、どうかお身体をいとわれて下さい。
156
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/05/04(金) 17:41:34
>>151
乾闥婆さん
こちらこそ、色々と棚上げなままご無沙汰してしまい、非礼を重ねております。(深々)
ブログを始められたとの事、早速拝見致しました。
まだきちんと読み込んではおりませんが、乾闥婆さんらしい誠実かつ慎重な筆致だと好感を抱いております。
何よりも、乾闥婆さんのブログのご案内を当サイトに頂けた事が大変光栄です。
本当にありがとうございます。
同じ道を歩まれる先輩として、きっと皆さんにも参考になるのではないでしょうか。
ご紹介の書籍なども、私も目を通していきたいですが、乾闥婆さんの視点からどう読まれたかにも非常に興味があります。
また様々な事について、語り合っていきたいですね。(^^;
157
:
乾闥婆
:2007/05/05(土) 01:07:20
春田の蛙さん。
遅ればせながら自身のブログのサイト紹介にこちらの掲示板をリンクを貼らせていただいたことを報告いたします。勝手にすみませんでした。
スレ違いですが科学哲学の伊勢田哲治氏は刊行の始まった『哲学の歴史』(中央公論新社)の初回配本11巻でも執筆されていますね。そのままずばり「科学哲学」の章です。
158
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/05/06(日) 09:34:10
>>157
乾闥婆さん
リンクありがとうございます。重ね重ね、光栄です。(深々)
乾闥婆さんのブログでご紹介頂くのは、非常に嬉しいです。
一緒に紹介されている場所を拝見しますと、とてもとてもウチなどとは
検証においても内容でも格の違う場所ばかりで、並んでリンクを頂くのが申し訳ないくらいですが。(汗)
本当に、過分な扱いをありがとうございます。m(__)m
>スレ違いですが科学哲学の伊勢田哲治氏は刊行の始まった『哲学の歴史』(中央公論新社)の初回配本11巻でも執筆されていますね。そのままずばり「科学哲学」の章です。
おお!情報ありがとうございます。さすがに読書家ですね…情報チェック。
勉強の量では、私は乾闥婆さんやひゃっきまるさんには、とてもかなわないです。
伊勢田哲治氏の解説は、的確かつ私みたいな素人にも分かり易いので、そういったシリーズの執筆には、これ以上ない人選ですね。
そうそう、ブログの以下の記事で、ネット古書店で購入された書籍を紹介されてましたけど、
http://kiukiu.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/2_0c27.html
実は私も以前に、浄土研究で知られた故・笠原一男氏の著作をネットの古書店で検索していて、
見付けたのですがちょっと手元不如意でしたから、後で買おうと思っていたら数週間後には売れていました。(泣)
いやぁ、こういうのは見付けたときに買わないとダメですね。(汗)
159
:
乾闥婆
:2007/06/03(日) 18:46:46
春田の蛙さん。
遅いレスですみません。忙しさにかまけて一月もあいてしまいました。
先日『マインド・コントロールの恐怖』をようやく読みまして、その感想をブログに載せました。もし感想など聞かせていただけたらと思いましてリンクを貼らせてもらいます。もちろんひゃっきまるさんやここに参加されている方の感想もいただければうれしく思います。
http://kiukiu.cocolog-nifty.com/blog/
>検証においても内容でも格の違う場所ばかりで、並んでリンクを頂くのが申し訳ないくらいですが。(汗)
いえいえ、教義面の検証と組織被害の生の声とはまた別テーマですから。それぞれの役割があるはずです。といいますか、今の学会員さん、あまり教義レベルのことは問題にされないですしね。
>勉強の量では、私は乾闥婆さんやひゃっきまるさんには、とてもかなわないです。
いえいえ、最近は仕事も忙しく本当に読書量が減りました。全然読めていません。(汗)
>実は私も以前に、浄土研究で知られた故・笠原一男氏の著作をネットの古書店で検索していて、
見付けたのですがちょっと手元不如意でしたから、後で買おうと思っていたら数週間後には売れていました。(泣)
そうなんですよね。高木豊氏の本もときどきネット古書店で検索していたんですけれど、なかなか現れなくて。ある日値段も手ごろで出ていたので、すかさず買いました。
160
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/06/14(木) 03:49:52
>>159
乾闥婆さん
こちらこそレスが遅くなってしまって…大変失礼致しました。
しかも私の場合、いつもこうですから、ホントに申し訳ないです。(深々)
私の方は、むしろこうして乾闥婆さんのペースで、無理なくお相手をして頂けるのが嬉しいです。
それに乾闥婆さんとのやりとりは、気持ち的にも本音でやりとり出来て、
かつ実り多い中身ですから、話相手に選んで頂けるのがいつも光栄に感じます。m(__)m
>先日『マインド・コントロールの恐怖』をようやく読みまして、その感想をブログに載せました。
はい。拝見しました。
>もし感想など聞かせていただけたらと思いましてリンクを貼らせてもらいます。もちろんひゃっきまるさんやここに参加されている方の感想もいただければうれしく思います。
もちろん喜んで。後ほど、そちらにコメントに伺いますね。
皆さんも、ご感想をどうぞ宜しくお願いします。m(__)m>ALL
また、乾闥婆さんが別記事としてまとめておられる、「本来の自己」については、
私自身この数年考えてきた内容でしたから、是非ともじっくりやりとりさせて頂きたいです。
率直に申し上げて、二つの記事の視点に非常に共感致しました。
161
:
春田の蛙
◆j/aD5mpE9Y
:2007/06/14(木) 03:52:10
(続き)
>教義面の検証と組織被害の生の声とはまた別テーマですから。それぞれの役割があるはずです。
そう言って頂けると恐縮です。m(__)m
ですが、そのような場に、教義面の検証にも詳しい乾闥婆さんの監修が頂けるのは、大変心強く感じています。
組織被害の生の声が、安易に別な何かに利用されるとか、また長い目で見た場合の
社会からの孤立といった事態を防ぐためにも、乾闥婆さんのご意見とご参加が頼もしく、有難いです。
また私個人としては、以前にもお話ししました通り、日蓮の念仏批判について、
念仏者の立場と資料理解から、それに同意し肯定出来るのではないか?と考えておりまして、
実を申しますと、先の科学哲学の解説の一部にも、その布石としての意味合いを含めていました。
それに「本来の自己」といったテーマを論じるにあたっても、
これらの説明と理解を平行していく事は有益と考えます。
というより、むしろこちらが本題になるのかな…
ですから拙い駄文を書き連ねるばかりではありますが、
出来れば今後ともお付き合い下さり、ご助言を頂ければ嬉しいです。
本当に、こちらでも、またそちらのブログでも宜しくお願い致します。
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