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11月6日お祝いの渦が出来るかな?!司法の日大

28大正9年(1,920年)の大学令:2024/10/09(水) 19:50:52
日本大学の歴史
第3代山岡万之助
https://www.nihon-u.ac.jp/history/forerunner/yamaoka/
(Wikipedia)
明治30年(1897年)、日本法律学校(後の日本大学)入学。
明治32年(1899年)、日本法律学校卒業。第1回判事検事登用試験合格、司法官試補となり浦和地方裁判所熊谷支部検事局に勤務。
明治34年(1901年)第2回判検事登用試験に首席で合格。当時の官報は合格者のトップに「長野県平民、山岡萬之助」と記している。
東京区裁判所判事となる。

明治39年(1906年)、東京地方裁判所判事。日本大学最初の留学生としてドイツに留学する。ミュンヘン大学、ライプツィヒ大学、
ベルリン大学で学ぶ。明治42年(1909年)にライプツィヒ大学からドクトル・ユリス(法学博士)の学位を受領し、帰国。

明治43年(1910年)、東京地方裁判所検事・東京控訴院検事。さらに日本大学教授(刑事政策学・刑法担当)に就任する。
大正2年(1913年)に日本大学学監、大正3年(1914年)には司法省参事官にそれぞれ就任。

日本大学では大正5年(1916年)に理事に就任し、翌大正6年(1917年)宗教科を設置。大正8年(1919年)には
日本大学より、母校出身者として初めて法学博士号を受ける。大正12年(1923年)11月、学長に就任。
昭和8年(1933年)3月、日本大学第四中学校(現・日本大学中学校・高等学校)校長に就任
(昭和15年(1940年)退任)、同年10月に日本大学第3代総長となり、昭和12年(1937年)2月には
日本大学初代総裁も兼ねた。

一方官吏としても、大正9年(1920年)に司法省大臣官房保護課長、大正10年 (1921年)に
司法省審査委員、同省監獄局長(後の行刑局長)となり、大正14年(1925年)には
小川平吉司法大臣の下で治安維持法の原案作成にあたった。昭和2年(1927年)には
内務省警保局長となり、三・一五事件で検挙の元締めをつとめるなど、赤狩りの権威と評された。
昭和4年(1929年)には貴族院勅選議員となり、昭和6年(1931年)には
東京弁護士会会長に就任。昭和7年(1932年)、関東長官を最後に退官。
昭和9年(1934年)、勲一等瑞宝章を受ける。同年日満法曹協会会長に就任。
昭和15年(1941年)、大日本興亜同盟理事長。

戦後は貴族院議員を辞職し、次いで公職追放となり、昭和21年
(1946年)に日本大学総長・総裁を辞任するが、昭和26年(1951年)追放解除。
昭和27年(1952年)に日本大学名誉総長となる。92歳没


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