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RNA:Ritsumeikan News Association vol.1
684
:
名無しの立命生
:2009/01/05(月) 14:56:59 ID:JCl6FxK60
【古典個展】立命館大教授・加地伸行
「知識」より「知恵」の生活
http://sankei.jp.msn.com/life/education/081228/edc0812280253000-n1.htm
歳末である。日本人の習慣で御用納(ごようおさ)めは掃除。
街頭ではビルの前の道路を女子社員が箒(ほうき)で掃除している。
それ見てすぐ分かった。このお嬢さん、多分、家では箒で掃除したことなんかないことが。
もっとも、近ごろは電気掃除機だから、本人に罪はない。
この女子社員、箒を力まかせに掃くものだから、枯れ葉をうまく寄せられないでいる。それだめ。
老人の私が子どものころ、「ほうきほさき、つえてもと」と習ったものだ。
箒は穂先きに力を入れて掃き寄せるのがコツ。お嬢さんのように箒の穂の腰のところを曲げて強く掃いてはだめという教えである。
確かに、箒は穂先きで軽くさっさっと掃けば、よく掃き寄せられる。濡(ぬ)れ落ち葉だって掃き寄せられるのである。
或(あ)る戦闘的女性評論家は、定年退職後の男性を濡れ落ち葉に喩(たと)え、奥さんにべったりくっついていてだめだと評したが、あの女性評論家、多分、箒なんて持ったことないのだろう。
そうそう、「つえてもと」とは「杖手元(つえてもと)」のこと。箒を使うときの知恵の逆で、杖のときは、持つ手元をしっかりと握(にぎ)れという知恵だ。杖は先端よりも把(と)っ手のほうが大事。
こういう知恵は子どものころ、なんとなく親や大人から学んだが、国語の時間でも学んだ。小学校教科書に、自然科学者の寺田寅彦(とらひこ)の文章が出ていて、そこから「きもとたけうら」という知恵を教えられ、今も覚えている。
昔は、木や竹を割ることが家事の一つであった。木は薪(たきぎ)に、竹は細工物(さいくもの)に使っていたからである。
木は適当な長さに切ってから立てて、斧(おの)で割るが、そのときの立てかたにおいて、木の根元側のほう(形で分かる)を上にする。するとパンと割れる。
竹のときは、その逆で、竹の先端側のほう(「うら」あるいは「うれ」と言う)を上にする。バリッと割れる。それが「竹を割ったような気性(きしょう)」という形容となったのだろう。
このような生活体験的知恵は、機械化の進むなかで、急速に消えていっている。もちろんそれに替(か)わる知恵は出てくる。例えば、パソコンを使うときの裏技(うらわざ)などというものがそれに当たるのかもしれない。
しかし、それは知恵と言うよりも知識であろう。知恵の場合、まずことばにリズムがあり、覚えやすく、歌うような感じで心をつかむ。
「ほうきほさき、つえてもと」−どことなく語呂(ごろ)もいい。「きもとたけうら」もそうだ。また中身も対照的。
学校制度が普及する以前、人々はまず実務に入った。実務の世界は経験・知恵がものを言う。そのような生活を経てから学問・知識を求めても遅くない。
ところが、今は知識の勉強ばかりするため、頭でっかちになる。しかもそれで一人前になったつもりとなるから、知恵はからきしない頼りない卒業生の山。
今日の小学校から大学に至るまで、まずは合宿や生活体験、農作業や林業の手伝い…といったことを教育課程の中に据えなくては、空(から)学問に終わる。『論語』学而篇に曰(いわ)く「行(おこ)ないて余力(よりょく)あらば、則(すなわ)ち以(もっ)て文(学問)を学べ」と。(かじ のぶゆき)
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