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金原明彦著「日蓮と本尊伝承ー大石寺戒壇板本尊の真実」
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大石寺への鉄槌の書か?
読まれた方感想をどうぞ。
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のりさん、すみません。^^;
あちらでのレス、遅れてました。
友へ〜のスレッド、カフェのスレッドにも、おいで下さいね。^^
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一壮年さん
> 教学は3級まで取りました
そうですか。私は「任用試験」です。高校時代、言われるまま必死になって勉強したのが身につきました。後は、男子部時代の試験は、一級が思いでがあるぐらいで、なんだかよく覚えていません。(笑)
いずれにしても、本気になってやったものだけが、残りますね。
御書では「種種御振舞御書講義」を20歳前後によく持ち歩いては読んでいました。日蓮大聖人・・・大好きになりましたね。
一切衆生皆成仏道を願い、妙法を流布し、国主諌暁をした結果が、「死ね、いなくなれ、消えろ」で、竜の口の首の座、そして佐渡でしょう。
しかも大聖人はこの時50歳です。我々、壮年部世代なわけです。32歳で立教し、18年間弘法に励んだ結果が、首の座、佐渡の塚原の極寒地獄ですから。
同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ、十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし、かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす、夜は雪雹雷電ひまなし昼は日の光もささせ給はず心細かるべきすまゐなり、
松葉ケ谷の法難が39歳、伊豆配流が40歳、小松原法難が43歳、上記竜の口・佐渡配流が50歳、同じく曼荼羅図顕開始が50歳、身延入山が53歳です。
学会で学ぶ、三代会長の死身弘法は当然として、大聖人の法難、その時の歳を我が身に置き換えた時、「まだまだ、これからだよ」と奮い立たずにはおれませんね。
のりさん
こんばんは!
ここには多種多彩な方が集いますからね。私も日々、勉強・精進です。ありがたい事です。
> 熱原の公演にあたり日照寺
ですか。行動力ありますね。私もけっこう色々とあちらこちらと回ったのですけど、今回のこのスレが始まってから、全くどこにも行けてません。そろそろ、現場を回ろうかと考えています。
以後、宜しくお願いします。
しずくさん
いつも多方面で活躍ですね。パワーありますね。
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>>948 熱原の公演にあたり日照寺
富士市厚原の本照寺だと思います。
鎌倉中期、日蓮宗の広まりを恐れる幕府に熱原(現在は厚原)村の神四郎ら三兄弟は無罪の罪で捕らえられ、はりつけの刑にされました。次から次へと打たれる矢にもかかわらず、神四郎らは「南無妙法蓮華経」を唱え続け、やがて・・・。これが世にいう熱原法難で、本照寺には神四郎のお墓があります。
先日、正宗の方と「道郷問題」について
私「戒壇本尊が宗祖真筆 と云うのなら、まず少なくとも日目ー日道ー日行と大石寺の法灯が正統との証明しないと成らないが?」
正宗「日目上人亡き後、相伝された日道上人が大石寺第3世となっていたが、日目上人の弟子日郷が嫉妬を起こし南条時綱と結託し大石寺東坊地を占拠した。
後に追い出され保田に妙本寺を築いた。日道上人は保田に退いた日郷と戦いながら、各地に寺院を建立し、第4世を日行上人に譲り今日まで法灯を守ってきたのだ」
私「正宗さんは日郷師を悪者にするが、「蘇我入鹿は藤原氏に後世極悪人にされた」との説も有るし、今一度、道郷騒動の歴史を見直したらどうだ?」
正宗「日目上人から日道上人の相伝が有ったから大石寺に戒壇の大御本尊様がおわします、逆に日郷は大石寺御影を盗んで行った」
私「その日目師の鳥辺野のお墓をお守りしたのは何処の誰か?相伝なぞ無いから争いになったのだろう?」
正宗「日道上人は正しく日目上人より相伝されたのは間違いないのだ、大石寺は相伝の有る正しき寺院だ」
と平行線に成ったわけですが。(笑)
「道郷騒動」を解明するのも板本尊が大石寺の関係者に後世創作されたと証明する事となると思います。
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藤原氏以降の日本史しかり、バチカン以降のヨーロッパ史しかり歴史は勝利者によって
変造、改変されるのが常ですから、「道郷騒動」解明は大事だと思います。
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のりさん、おはようございます。
高杉晋作は師匠の吉田松陰の遺体を引き取りに行き、
先生を殺した幕府を必ず倒してやる!
と、誓ったそうです。
彼のこのときの心のそこからの誓いが明治維新となったのです。
でも、心に誓った時、何のあてもなかったでしょうね。
心に深く誓うなら叶う。
石虎将軍の古事もあります。
戸田先生が牢をお出になられ、牧口先生のお葬式はの参列者が軍部を恐れ、二人か三人だったと聞かれたとき。
『よし!何が何でも牧口先生を世の中に出さずにおくものか!』(趣意)
と、心に堅く誓われたそうです。
今私共が創価学会員でいれるのは、このときの戸田先生のお誓い故です。
先日関西で池田先生は、
『今、本物の闘志はいるだろうか?
何処にいるのだろう?
私の思いはこの一点にある。』(趣意)
と、言われました。
辛いお言葉です。
私は本物ではありません。
ですが、田山先生は本物の闘志です。
裏切り。
嫉妬。
経済苦。
身体の障害。
全てを背負いながら、愚癡一つ言った事がありません。
家族もなく一人ぽっちです。
四年ほど前に、田山先生に、医者に行きましょう、とお願いいたしました。
もう長くないからいいよ。
あの時だけ本気で怒りました。
なんと言う情けないことを言いますか。
後は、号泣して言葉は出ませんでした。
すると、わかった行く。と、返事がありました。
その時決めたんです。
誰が裏切っても自分は絶対にこの人を支えよう。
その後二人とも苦しい時が三年続きました。
今、ようやく抜け出したんです。
先日、先生あと十年二人で頑張りましょうよ。と、決めました。
熱原三烈士の世界公演まであと三年です。
険しい道ですが、頑張ります。
私はそばにいて、よく知っています。
あの人は、池田先生の言われた、本物のの闘志です。
私にはあんな戦いは無理ですよ。
私共の目の前にいるのです。
本物を支える偽物の私は、本物の闘志の働きが可能です。
あの人と一緒にやっていてよかった。
池田先生の心の叫びを聞いた時の実感です。
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のりさん、
ですからね、人生は格闘です。
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風神さん、昨日は背中を押して(励まし)頂きありがとうございました。
そして、このスレの進行、本当にお疲れ様です!。
あっ!のりさんもいるゾウ(パオーン!象さんの嬉鳴き)!
沖浦さん・のりさん、三島での公演、
(心の底から、声を張り上げるつもりで・・・声を整えて、と・・・)
『頑張ってください〜〜〜〜〜!!!!!!』(←文字が1000ポイントくらいの大きさで)。
しずく☆さん、昨日はありがとうございました!お声をかけて頂き、嬉しかったっす・笑!
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こんにちは。
皆様の書き込みで、勉強させてもらっています。m(__)m
ここのスレッドが過去ログ行く前に、しっかりと、保存しています。^^
日々さんへ。
いえ。^^
日々さんの存在で、元気もらったり、癒されたりする方いるんですよ。^^
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日道上人正しい云々は、初めから答えが決まっていて、後から理屈付けているに過ぎない。
曰く、何とか上人は誰も見てない?所で総状を受けた。本当はお弟子で師匠より期待されていた
何とか上人は何故か?嫉妬し反逆?し出て行った。後に勝者何とか上人門下に歴史が改ざんされ
本当は師匠の跡目を継いでいたらしい敗者何とか上人一門は、裏切り者、反逆者の汚名を掛けられ、勝者の門流のみ正しい
とされて来た。そんな所かな?
だから、歴史というのは勝者のみでなく、敗者の歴史も見て解明しなければならない、という事でしょう。
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1000
getだぜ ふふふf
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経傘糖さん、1000までは、あと、よんじゅうだよん。
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実は私も狙ってます。(笑)
>>956
歴史というのは勝者のみでなく、敗者の歴史も見て解明しなければならない
勝者は自分の都合良く歴史を改変するのが常です。勝者(正しい)敗者(正しくない)は
は眉唾で、「正義は勝つ」も理想論です。実際は「正義は力なり」が現実です。
勝者は聖者になり敗者は反逆者にされます。日郷師、日伝師の涙ながらの無念の気持ち良く分かります。
だから、反逆者にされた敗者の「道郷騒動」を解明する事は大事だと思います。
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日蓮正宗の「三宝、三宝・・・」?
現在の大石寺の教学は江戸時代の日寛師代に作られたと云われています。
ただし、それは「私はこう感じた、故に正しい」という日寛師の押し付け的?教学。
おまけに、三超院日秀師を弾圧したのは、日寛師だとの説も有ります。
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皆さん、こんばんは。
訂正とお詫びです。
日照寺⇒本照寺
でした。大変、申し訳ありませんm(__)m
三烈士の墓石が五輪塔でしたので、かなり時代を感じさせる墓石でしたが、
大石寺では、確か大きな方形石だった記憶があります。
(という事は大石寺のお墓は後期のものか?)
富士門さん
「道郷騒動」についてなのですが、このスレのタイトル「日蓮と本尊伝承ー大石寺戒壇板本
尊の真実」 同様、宗門の歴史の真偽を立証する大事なテーマだと私も思います。
先日の日曜日の午前に、サンデープロジェクトという番組で田原総一朗氏が北朝鮮の高官に、
亡くなったとされる横田めぐみさんの遺骨のDNA鑑定を巡って、その真偽をアメリカにまかせ
てはどうか、と迫っておりました。
日蓮仏法における各宗派におかれましては、いらぬ邪推を抱かれぬ為にも、ここは第三者機関
(大学や研究所等)におまかせするのが、時代の要請ともいえるのではないでしょうか。。
各宗派が正当性を主張するのであれば尚の事、占有するのではなく、第三者機関によって
歴史的な史料などを加え、判断する姿勢が大事になってくるように思えます。
会社の経営も、政界の構図も、今やネットなどの普及と共に、次第にガラス張りになって
きております。
宗教界だけが、時代遅れでよいとするのであれば、近い将来、誰も関心をもたなくなるでしょう。
(自分が生きている間さえ良ければいいとする坊主は完全にもう時代遅れです。)
何処かに良い、中立的な第三者機関みたいなところ、、ありませんかね。
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>のりさん、
> ですからね、人生は格闘です。
沖浦さん、ありがとうございます。
小野さん風に言えば、私は限りなく不純物100%に近い、身と心です。
創価学会員でなければ、ただ長く生きて不純物だらけの人生で終わったところです。
しかし学会員である事で、その内の0点何パーセントかの純な部分で、沖浦さんの
先生に対する思いが沸々と伝わってきます。
>「おもしろきこともなき世をおもしろく」「すみなすものは心なりけり」
できれば私もこう言って、人生を締め括りたい。
後半に差し掛かった人生の第一歩は、今回の「熱原の三烈士」の公演です。
組織は組織として護る力もつけて参りたい。
日々更に決意さん、激励ありがとうございます。
頑張りますよ〜〜パオ〜〜ゥ!
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>>964
という事は大石寺のお墓は後期のものか
美濃周夫氏の著書によると「大石寺のは墓碑(記念碑?)」と記して有りました。
中立的な第三者機関みたいなところ
正宗の方とも論争になったのですが
「松本勝弥氏裁判の時も大御本尊様が御真筆と裁判所が判断したから勝訴したのだ。松本勝弥氏は信仰が
が変わったからご供養を返せとは、信仰が変わったからお賽銭を返せというのと同じだと学会の弁護士も批判してるではないか」
と勘違いの論争になったわけです。
事実は「教義論争は裁判に馴染まない」で別に真偽云々は問われて居りません。
因みに松本氏は「信仰が変わった」のではなく、信仰対象の板本尊が御真筆でなく後世創作の疑いが有るので明らかにして欲しいと
主張してたと聞いた事が有ります。
尚、統一教会、法の華、、本覚寺等の事件も宗教を利用した霊感商法を裁判してるのであって
教義云々は裁判所も追及していないと思います。
しかし、教義、伝説を利用した悪質な宗教には「教義だから」と逃がさないためには
何らかの第三者機関が必要と思います。
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池田大作さん。
すこしは、真面目に生きなさい。
地獄に完全に堕ちるまえに
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(人類滅亡)スレ 終わりまで
1000まで あと33
(大和)経傘糖がんばれ 無事 帰還を祈る。
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のりさん、おはようございます。
組織ですか。
貴方が会合に参加している時、貴方の広宣流布は一時停止中です。
広宣流布は外が舞台です。
中にいる時は一時停止。
入院治療中の格闘家ですね。
世間と言う広大なリングが待ってますよ!
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沖浦さんへ
>貴方が会合に参加している時、貴方の広宣流布は一時停止中です。
>広宣流布は外が舞台です。
この際、はっきり胆に銘ずべきお言葉だと思います。
私としては、外に向かって闘うことが、我が地域を護ること。
そのように理解をしております。
>入院治療中の格闘家ですね。
これは避けねばなりません(笑)
法華講のいう血脈の次第とか組織という言葉には何故か、
固定されたイメージが付きまといます。
自分に似合わないダサい帽子をかぶされた感じとでも
いいましょうか・・・・
血脈といい、組織というも随自意に動きに動いてこそ
その真価があると思います。
魔が競ったって何のその
血の巡りの悪い頭をふる回転して
さぁ〜、動きに、動いてまいる所存です!(^^)!
沖浦さん、いつもありがとうございます!
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創価学会は、悪い団体です。
公明党は、悪い政党です。
創価学会員は、悪い人たちです。
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では、続きをいきましょうか。
あと1000ページぐらい有るから、何日かかるやら。まあ、気長にね。(笑)
【 法華講員さん 】
「原殿書、祖滅七年、日興上人より原弥六郎への返状、中古の写本要法寺に在り。」
君達の論法で言えば、
1、この書が真書であることを「上古の文献」で証明しろ。
2、真蹟はどこにあるんだ〜?
3、偽書で無いということを客観的証拠で明確に証明しろ。
4、筆跡鑑定しなければ信じない。
この四点が明らかにならなければ偽物だ〜〜。
と、こうなるが如何か?
貴公は上記四点が明白でないのに何故この書を軽々に引用するのか?
戒壇の大御本尊様・二箇相承・百六箇抄・条々事・他への邪難も同様の論法であろう?
ここに貴公らの謗法の腐りきった根性でなす欺瞞の実態が明々白々となった。
【 風神 】
◎ 「原殿書」
・日興上人による身延離山そのものは、全日蓮門下教団存知の史実。(動機・解釈は異なるが)
・富士一跡門徒存知の事により、身延山の本尊問題も伺われます。
・該書の「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経」は、阿仏坊御書等に明示される大聖人の出世の本懐とも同義。
故に写本のみでも、状況証拠により採用できるということです。
◎「戒壇板本尊」
相貌の鑑定、歴史上の考察から日蓮大聖人在世には存在はなし。
◎「二箇相承書」
過去、指摘ずみ。
◎「日興跡条々事」
同
◎「百六箇抄」
同。
◆ 何も「原殿書」のみならず、写本のみの大聖人の御書も多数有ります。もちろん、これらは真筆だったのか、偽書なのか、時間をかけ状況証拠を積み重ね判定をするべきですが、ほぼ全日蓮門下が横断して拝読しえるものであり、認識を共有できるものが多いでしょう。
◆ しかし、「相承書」は違います。今日では六老僧それぞれの門流が、規模の大小はあれ「宗教法人」として認証、運営されており、よほどのことがない限りは消滅することはありません。しかし、相承書の真偽は「それぞれの教団の存立に直結」する問題ともなります。
故に「祖師・日蓮に関係する相承書の真偽判定」は、全日蓮門下をして納得せしめるものがあらねばならず、一宗派内のみで「これがわが門祖への相承書だ」としたところで、何の意味も無いのです。客観的な鑑定、伝承の経緯等の情報公開、それの調査・分析が必要となります。
◆ なんといっても、
・大聖人は相承書なるものによって、特定の一人のみへの付属を期されていたのか否か。
・大聖人は唯授一人血脈相承により、令法久住を期されていたのか否か。
・大聖人は唯授一人血脈相承を実際に行なわれたのか否か。
・大聖人の仏法は相承書などによらない、「信心の血脈」により時代、時代に確立されるものなのか、否か。
という、祖師・日蓮大聖人の教義、思想に直結してくる問題であり、内容はどちらの主張どおりになるかは別としても「一つの日蓮像」ができあがり、そこに信を取るのですから、「相承書の真偽は重要な問題」なのですね。
◆「戒壇板本尊」も同じく、その意味する方向性は「相承書」とほぼ同じであり、
・大聖人は特定の一つの本尊を出世の本懐とされたのか否か
・その本尊は本門戒壇に安置の本尊なのか、否か
・それを実際に唯授一人で相承されたのか否か
などですね。
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◆ 特に「相承書」を申告したところは過去に数多あったわけですが、日蓮正宗・大石寺を除き、今日では、ほとんどが引っ込めてしまっていますね。
「相承書」により正統とするのではなく、信仰実践により祖師とつながりゆく、という本道の選択ですね。又それこそが「信仰の王道」でもあり、常識でもあるでしょう。
現在では一人、日蓮正宗のみが声高に主張しているのです。「出世の本懐の板本尊だ」「御法主上人ゲーカが唯授一人血脈相承を継承される」等々と。
これに対して、他教団が「そこまで言うのなら」と客観的な証明を求める、というのも当然至極なことなのです。
◆ ですから「謗法の輩には」などともったいぶって、「御不敬だ」どうのこうのというのではなく、素直にストレートに証明すればいいのです。
それを頑なに拒否し、史実を「都合よく」解釈し、「憶測、推測を積み重ねて」証明しようとしてばかりいるから、指摘を受け続けているのです。
【 法華講員さん 】
ここに君達の謗法の腐りきった根性でなす、欺瞞の実態が明々白々となった。
全ての資料を自分らの都合の良い様に使い、散らかすだけであり、貴公らに仏法を学する真摯な精神や態度など、微塵も無い。
真に唾棄すべき腐り果てた、醜悪・面妖な食法餓鬼どもである。
【 風神 】
ということで、これは法華講員さんのひとり言ですね。本当に大丈夫ですか。
こういう発言は、全部、ご自分の内面世界の一端をそのまま書き記しているのではないですか? 見ている人、みんなが心配していますよ。
大仏殿別当への御状
早く我慢を倒して日蓮に帰すべし、今生空しく過ぎなば後悔何ぞ追わん
持妙法華問答抄
只須く汝仏にならんと思はば慢のはたほこをたをし忿りの杖をすてて偏に一乗に帰すべし、名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり、嗚呼恥づべし恥づべし恐るべし恐るべし。
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【 法華講員さん 】
そして、「聖人御難事」の仰せを重ねて拝すれば、その出世の本懐である御曼荼羅御本尊の中でもなかんずく、弘安二年の十月十二日の「本門戒壇」との脇書のあらせられる「大御本尊」様が「出世の本懐中の本懐」であるぞと、そういう立て分け、筋目によって判ずる御法門である、と拝するのである。
されば、「余は二十七年なり」とは、語の重複を避けて省略されているものの、理の指(さ)し示すところ、「余は二十七年にして出世の本懐を遂ぐるなり」の意であることは、誰の目にも明らかであろう。
これを、妄弁者らのごとく読むとすれば、わざわざ前文に、三国四師の出世の本懐までの年数を挙げられた理由がなくなってしまい、文意が支離滅裂となってしまう。むりな曲解は禁物である。
大聖人は、すでに文永12年3月の時点で、宝塔=曼茶羅(まんだら)御本尊を指して「出世の本懐」と仰せであるから、御自筆の、それも弘安2年10月1日近辺に顕(あら)わされた御本尊が出世の本懐であることは間違いない。
とすると、唯一、その脇書に「本門戒壇」とお認(したた)めがあり、かつ堅牢(けんろう)な楠板をもって建立された(御筆御本尊のうち板御本尊はただ一体である)、弘安2年10月12日の大御本尊以外に、出世の本懐と認(みと)められる御本尊はないのである。
【 風神 】
ひとり言が好きですね。法華講員さんの話では「戒壇板本尊が大聖人自身の造立」になってしまっていますが、その日蓮直造の証明は?できる、できない、どちらでしょうか?
◎ 聖人御難事のどこに、どのように「出世の本懐=本門戒壇の大御本尊」と書いてあるのか?
◎ 聖人御難事に大聖人出世の本懐が説かれているとして、それがどうして戒壇板本尊と結びつくのか。
法華講員さんの主張は結論が先にあり、そこに強引に導くための「解釈論にしかすぎない」のですよ。
◎ 法華講員さんは「聖人御難事に出世の本懐が説かれているならば、それは何だ? 弘安2年10月の本尊は数幅有るが、本門戒壇と認めの本尊は、十月十二日図顕の『本門戒壇の大御本尊』 しかない、故に戒壇板本尊こそ大聖人出世の本懐だ」といいますが、「日蓮出世の本懐が本尊だけ、しかも特定の本尊だけしかない」という発想はどこからくるのか。それが正しいという根拠をどこにあるのでしょう。まさか、「猊下の御内証で」などは言わないでしょうね。
【 法華講員さん 】
以上のように、本門戒壇大御本尊についての大聖人・日興上人の御文証は、天日を仰ぐがごとく明らかであって、否定のしようがない。大石寺の本門戒壇の大御本尊以外に、大聖人「出世の本懐」も「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」もありえないのである。
【 風神 】
法華講員さん!これじゃあ、まるでニッケン前ゲーカの説法と同じだね、何回同じことを言うのかな?ねむくなっちゃうよ。お寺の中の話ですね。・・・で、それで?
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【 法華講員さん 】
風神達はやはり、知能に少し問題がある方か?
「板本尊そのものの物証だけ。」と君らは難癖をつけるが、その御事がそのまま十二分に「客観的な証明」ではないか?
この問いに、貴公らの具体的な「客観的な証明」による反論は全くないではないか。
【 風神 】
同じ指摘は何回も言いたくはないのです。
法華講員さんの言うことは「日蓮正宗内の決まり事」であって、他宗教となって17年の私には関係ないのですがね。
むしろ、日蓮正宗の主張するところを「信じない」と、「知能に問題があるのか」という思考の方が「問題」だと思いますよ。
大聖人滅後300年近く経過してから突然出現した板本尊につき、それを擁する宗派ではなく、宗外の学者・学術機関等に鑑定してもらったのかな?
「日蓮直造なんだ」と信じるのは勝手ですが、宗外の人に向かい「日蓮直造」を前提に、だらだらとおしゃべりするのは、価値的ではありませんね。
法華講員さんの論法の次元は、本門正宗と変わりません。
とにかく「ひ・と・り・ご・と」が多い、ですね。
【 法華講員さん 】
しかも「余は二十七年」との御書がある。それが弘安二年十月一日である。
【 風神 】
聖人御難事ですか。指摘済み(笑)
【 法華講員さん 】
更に君達が例示した「立正安国会の図録」での弘安二年大聖人御真筆(と言われる)御本尊のその全てが、中央主題「南無妙法蓮華経」の真の「直下」には、「日蓮」という御名と「御花押」があらせられない。自分の目で確かめてみよ。
戒壇の大御本尊様のみ、まさに「南無妙法蓮華経」の中央主題・直下にお名前と、御花押があらせられる。真に尊いお姿である。
【 風神 】
大聖人真筆本尊はその年代により、相貌座配・筆法の変化が分類できます。この言い分は自ら「戒壇板本尊は実は、弘安3年期以降の中央主題・日蓮花押である」と宣言したようなものです。戒壇板本尊は「日禅授与本尊」といわれた、「ゲーカの御内証」に近づきましたね。
【 法華講員さん 】
戒壇の大御本尊様が特段に大幅であらせられる。
【 風神 】
それがなんでしょう?日蓮展で見た「臨滅度時の本尊」も大きかったけどな。
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【 法華講員さん 】
唯一の板御本尊である。(何度も言うようだがその板は鎌倉時代の手斧で削られている)
【 風神 】
自分で言うのは勝手ですけど「客観的な証明」をなぜやらないの?
日蓮正宗が日蓮消宗になっちゃうから?吹っ飛んでしまうから?
多くの大石寺坊主が職を失うから?
まあ、それも分かりますよ。国立戒壇を振り上げて降ろせなくなっちゃった、顕正会と同じですね。振り上げた拳というのはなかなか降ろせないものね。でも、もう、拳を上げて400年、「戒壇板本尊は必要ないという現代の民衆の機根」というものを知らないといけません。
【 法華講員さん 】
今の本題ではないが、二箇相承も、実は既に日興上人の御筆による金紙が存在するということである。
【 風神 】
ほう、これはすごい。大変なことです。
それは誰から聞いたの?
それが本物である、という証拠は?
言うだけだったら「ただ」だけど、ウソをついたら信用無くしますよ。
「うちのおとうちゃんて、本当は偉いんだぞー」というのとは、わけが違いますからね。責任重大ですね。
【 法華講員さん 】
(以下、日顕の話)
「法体とは本門戒壇の大御本尊様であり、この戒壇の大御本尊に関する相承とともに金口嫡々の血脈相承があるということのみを、一言、日応上人様は仰せになっております。
この金口嫡々の相承ということが、実は相承全体を包括した語であり、そのなかには、身延・池上の二箇相承が金紙として存するとともに、さらに時代の経過とともに、金口の内容を金紙の上に書き移してきた意味があるのです。」
【 風神 】
「唯授一人金口嫡々血脈相承」ですか。だからどうしたのでしょう、創価学会は関係ありません。
【 法華講員さん 】
大聖人様から日興上人様への相承は金口であります。
【 風神 】
何をもって日蓮 → 日興の相承と言うのですか。具体的な証明は?
【 法華講員さん 】
例えば、日精上人が『家中抄』の道師伝に、日目上人は日郷に御相承されたという邪説を破して、まさしく目師が道師に御相承を授けられたことを明かすなかにおいて、「別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり」(日蓮正宗聖典六九五㌻)ということをおっしゃっておりますが、これはまさしく金紙であって、いわゆる直接、口伝のみによって申し置かれたものだけではないわけです。
【 風神 】
1662年・寛文2年12/18 (滅後381年) 17世日精の「家中抄・道師伝」ですか。
日蓮大聖人滅後380年を経た、自称・正統嫡流の一寺院の住職さんが「うちの住職は日蓮大聖人だ。生身の御本尊さまだ。うちの四代目住職に三代目よりの秘法・十二箇条の法門があったのだ。だから我が宗派は正しいのだ」と言い出したら本当に大聖人正統となるとの道理をお示しなさい。こんなの文証どころではなく、余汰話、笑い話の類いでしょう。
奇怪なユーモアに満ちていますね、日蓮正宗というところは。(笑)
【 法華講員さん 】
以上の論証で理解できないとすれば、貴公らの根性が腐り果てているだけであって、そういう者を「救い難い謗法者・一闡提人」というのである。
【 風神 】
自称正統嫡流・教義の大半以上は手作り、そんな一日蓮系寺院のひとり言を聞けないと「腐り果て・謗法者・一闡提人」とね。
いや、よかったよ。あなたからいわれるということは、私達はまともだという証明みたいなものだよ。もっともっとジャンジャン言ってください。怪談話、脅し文句をね、現在の日蓮正宗の体質を世に知らしめる為にも、遠慮なくどうぞ!頑張って!
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【 法華講員さん 】
では君達が言うその「三大秘法の御本尊」は、現存する大聖人様御真筆御本尊(と言われている)御本尊のうちのどの御本尊か?
【 風神 】
法華講員さん!本当に大丈夫か?
大聖人が真筆本尊につき「これは三大秘法の御本尊で、こちらは違う=三大秘法の御本尊ではない御本尊だ」といわれたことがありましたか。有るのなら、是非、その御文を示してください。
【 法華講員さん 】
それとも、どの御本尊でも自分が「気に入った」御本尊でもいいのか?
【 風神 】
「自分が気に入った御本尊を三大秘法の御本尊としよう」との大聖人の教示などあるのかな?それとも、法華講員さんがお持ちの御遺文にだけあるのかな。
【 法華講員さん 】
それは、邪宗日蓮宗系寺院が所蔵している御本尊でもいいのか?
【 風神 】
大聖人の御本尊が「所蔵寺院・宗派によって三大秘法の御本尊となったり、ならなかったり」という文証があるのかな?(笑)
【 法華講員さん 】
三大秘法抄(真書であることは証明済み。疑難をするのならば偽書であることを明証せよ。)「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり。」との、具体的な「事の戒壇」に安置申し上げる御本尊はどれか?
【 風神 】
残念でした。大聖人の時代に「事の戒壇用の御本尊」は存在しません。
【 法華講員さん 】
一体か?
【 風神 】
大聖人の時代には0、日興上人の代には一体ではないでしょう。
【 法華講員さん 】
それとも何体か?
ありとあらゆる「大聖人御真筆御本尊」と“いわれている”全てか?
【 風神 】
日興上人は複数の大聖人真筆御本尊に「本門寺に懸け」と添え書きされています。
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【 法華講員さん 】
君達が拝む、日寛上人の御本尊を勝手に撮影・修正・複製・販売しているニセ本尊は、大聖人様御真筆ではないが、御書に書かれていない本尊を何故君達は拝んでいるのか?
御書に示されていない“本尊”なのだから、勝手に拝んではいけないのではないか?
【 風神 】
ご本尊を拝む行為につき、御遺文とセットでなければ拝めない根拠・文証は?(笑)
日蓮大聖人は「他宗教の人に断って御本尊を図顕・下付した」のですか。法華講員さん、勘違いしてはいけませんよ。
【 法華講員さん 】
御書、もしくは上古の文献で、大石寺門流の江戸時代頃の御法主が ある一寺院の住職へ下賜した御本尊を、在家が勝手に文字に修正を加え、授与書きを勝手に削除し、大量に形木で摺って、配り散らかして良い、という文証を挙げてください。
【 風神 】
「邪宗の人に断らないと、本尊下付をできない」という文証を挙げてください。
日蓮大聖人は「他宗教の人に断って御本尊を図顕・下付した」のですか。法華講員さん、勘違いしてはいけませんよ。日蓮正宗は正真正銘の邪宗教です。
邪宗教の人に「御本尊下付をする意義は、意味は、文証は」などと説明し、承認を得なければならない根拠など、どこにもありませんよ。
日蓮大聖人が念仏僧・禅僧・真言僧・天台僧・律僧などに「本尊下付の意義を説明し、その承認を得て曼荼羅本尊を図顕・下付した」という史実・文証を挙げてくれれば、こちらも少しは考えましょう。
【 法華講員さん 】
身延のみやげ物屋で売られている、大聖人御真筆と“鑑定済み”の御本尊の複製掛け軸は、大聖人様「出世の本懐」なのか、否か?
【 風神 】
質問がトンチンカンです。身延山の土産物屋に行き、同じ質問をして、売店のおじちゃん、おばちゃんのご教示を受けてください。
【 法華講員さん 】
まだまだ、疑問は尽きませんが、この辺にしておいてあげましょう。
速やかに御書を通して、証明もしくは回答して下さい。
【 風神 】
御遺文に及ばず。日蓮大聖人に信を取る門下の責務が「一閻浮提広宣流布・立正安国」の御遺命実現です。御歳50過ぎの大聖人の「曼荼羅図顕」の勢い、気迫そして慈悲、更に日興上人の生涯の300体を超える御本尊書写を拝した時、広宣流布を目指し曼荼羅本尊流布に不惜身命の実践を貫くは、門下の使命とも言えるでしょう。
【 法華講員さん 】
もし、上記の論証に成功しなかった場合は、貴殿らの謗法・堕獄は治定である。
精一杯の屁理屈による痴論を楽しみにしています。
【 風神 】
どうも、お待たせしました。
で、戒壇板本尊日蓮直造の証明は?
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【 法華講員さん 】
「出世の本懐」という意義に総じての意義と、別してのニ義が存するのである。
これは別段新義などではなく、凡そ仏教の法門全てに通じる基本的な捌きである。
君達が執拗に拘っているのは(拘らざるを得ない)、総じての辺に於ける「出世の本懐」であって、別しては究竟された御本尊に窮まるのである。
まず、「建立御本尊等の事」との題号と、そして、「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」との御言葉を重ねて拝考すれば、御仏は御在世も御一人であられ、滅後も、ただ御「一身の当体」であられる。
つまり、幾つもその「一身の当体」はいらっしゃらないのである。
これが別した辺の「出世の本懐」の御本尊であられる。
その他の御本尊は全て、この「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」との戒壇の大御本尊様から開会せられるのであって、それを総じての辺における「出世の本懐」といえるのである。
【 風神 】
さあ、いよいよ法華講員さんを教祖様とする新宗教の旗揚げですね。おめでとうございます。
なんと名付けますか。いや、まだ楽しみはとっておきましょうか。法華講員さんに日蓮正宗ではもったいないですからね。あんな宗教団体にいても、小さすぎてつまらないでしょう。このような教義上のやり取りを経る過程で、祖師の内奥に迫られ、同一化し、平成の日蓮となられたのですね。
では、聞きますか。
◎ 大聖人が「出世の本懐につき総別の二義を立てられた」という文証を示してください。
◎ 大聖人が「これは総じての辺における出世の本懐の御本尊」「これは別しての辺における出世の本懐の御本尊」と立て分けられた証拠・文証を示してください。
◎ そのような、「出世の本懐につき総別がある」という解釈論は「いつ、どこで、誰」より始まったのか、その根源を示してください。
◎ 1272年・文永9年3月13日 阿仏房御書 51歳 与阿仏房
あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ、子にあらずんばゆづる事なかれ・信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。
・これのどこをどう読めば、総じての出世の本懐となるのですか。
・ストレートに「とはこれなり」とあり、「出世の本懐」ズバリそのものではないですか。
◎ 1278年・弘安元年 御義口伝巻上
此の円融の三諦は何物ぞ・所謂・南無妙法蓮華経是なり、此の五字・日蓮出世の本懐なり之を名けて事と為す、
・これのどこをどう読めば、総じての出世の本懐となるのですか。
・ストレートに「なり」とあり、「出世の本懐」ズバリそのものではないですか。
◎ 日本国の一切衆生の為に付属し給う「日蓮建立の御本尊」は戒壇板本尊である、と証明できるのですか。
1278年・弘安元年〜1280年・弘安3年 御講聞書 身延にて
一等雨法雨の事
此の等雨法雨は法体の南無妙法蓮華経なり、今末法に入つて、日蓮等の類いの弘通する題目は、等雨法雨の法体なり、此の法雨・地獄の衆生・餓鬼・畜生等に至るまで同時にふりたる法雨なり、日本国の一切衆生の為に付属し給う法雨は題目の五字なり、所謂・日蓮建立の御本尊・南無妙法蓮華経是なり云云
⇒ この御本尊につき、総別との大聖人の教示など、どこに有るのでしょう
◎ 大聖人が成就した三大秘法は戒壇板本尊のことである、と証明できるのですか。
1273年・文永10年5/28 義浄房御書 佐渡にて
( 参考 本書は本尊図顕1年8ヶ月後。 翌年10/5、身延在山時に蒙古来襲 )
寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり秘す可し秘す可し、
◎ 「日蓮がたましひを・すみにそめながしてかきて候」本尊は戒壇板本尊のことである、と証明できるのですか。
1273年・文永10年8月 経王殿御返事 佐渡にて
日蓮がたましひを・すみにそめながしてかきて候ぞ・信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり・日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし
⇒ 法華講員さん、大聖人がその「たましひ」を「すみにそめながしてかき」更に「信じさせ給へ」といわれる御本尊は総じての意義である、といわれましたか?この本尊はどなたに授与されたのですか?
まさか「弥四朗国重」などといわないでしょうね。
◎ 上行等の聖人が出現し・建立された本門の三つの法門は「戒壇板本尊」なのですか。
1274年・文永11年5/24 法華取要抄 与富木常忍 身延にて
( 参考 5/17の身延入山以降直近の書 10/5の蒙古襲来の約4ヶ月前 )
是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し・本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布・疑い無からん者か。
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失礼しました。
979は風神です。
・・・たまに忘れてしまいますね。
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【 法華講員さん 】
これが弘安元年以降の御本尊様に拝され、更に、「余は二十七年」の御言葉から弘安二年に限定される。
以下は既に詳論している如くであり、結論として「戒壇の大御本尊」様以外に、「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」との、大聖人様御一身・御自らの御魂魄を留められた御本尊様はおわさないのである。
その他の御本尊は全て、この「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」との戒壇の大御本尊様から開会せられるのであって、それを総じての辺における「出世の本懐」といえるのである。
【 風神 】
法華講員さんもいよいよニッケン前ゲーカと似てきましたね。眠くなります。(笑)
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【法華講員】
下手こいた〜♪
ゲーカも認めた 偽物だ。
でもソンナノカンケーネー、タイセキジー(笑
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>>955
先日関西で池田先生は、
『今、本物の闘志はいるだろうか?
何処にいるのだろう?
私の思いはこの一点にある。』(趣意)
と、言われました。
相手が自分の信仰の先輩に当たる九州創価学会の幹部らが行なった神社寄付の
行為を「相手が誰であろうと絶対に間違ってる!」と声を上げた方も
池田先生の仰った「本物の闘志」の1人だと思います。
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> 953
正宗「日道上人は正しく日目上人より相伝されたのは間違いないのだ、大石寺は相伝の有る正しき寺院だ」と平行線に成ったわけですが。(笑)
「道郷騒動」を解明するのも板本尊が大石寺の関係者に後世創作されたと証明する事となると思います。
◆ そうですね。金原本でもP180以降で触れていますが、「戒壇板本尊の造立時期と造立主」の推考については「いい線まで」いっていると思います。寺院経営が緒についた大石寺が保田妙本寺に対抗して・・・の線も結構濃いものがありますからね。金原本の指摘どおり状況証拠から推せば、6世日時の代が可能性としては一番高いです。
◆ 更に、
1379年・天授5年・康暦元年には熱原法難から100年。
1381年・弘和元年・永徳元年には大聖人第100遠忌。
1382年・弘和2年・永徳2年には日興・日目50遠忌。
1388年・元中5年・嘉慶2年には大聖人御影造立。
このいずれの時にも6世日時が大石寺の貫主職ですから。
◆ 1331年・元徳3年・元弘元年3月12日に、日禅は大石寺南之坊で亡くなっています。
この時、「日禅授与本尊」は坊に奉安されていたでしょう。
日禅亡き後、一旦、日興上人の手元にあずけられたのか?
そのまま坊に奉安されたのか?
断定はできませんが、「日禅授与本尊」には、
弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、 (日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(また同御加筆御花押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり 法道院蔵(現在は大石寺) (富要 8-178 )
と、日興上人の添書きが有ります。これは文面の意味するところからして、日禅の生前に日興上人が認められたものでしょう。
◆ いずれにしても、6世日時の代あたりで「日禅授与本尊」を元に、板本尊が模刻造立され、それが後世に「日蓮大聖人出世の本懐・本門戒壇の大御本尊」となっていったと推考しています。現時点では。
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そう云えば
元徳年代に、北山の御影堂に盗賊が入って、重宝を盗まれたと聞いた事有ります。
その事件が事実なら、大変不謹慎ですが、盗賊と興門派僧との関係も気になります。
(例えば盗まれた筈の興師筆の宗祖御入滅記録が日代師の西山に存在するとか。
ただ、盗難事件が創作なら、日代師を貶める為の後世創作とも考えられるのだが)
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>>985
怪しいよネ~タイセキジー
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> 985
家中抄の「日代伝」
釈の日代、俗姓は由比、駿河の国の人なり、日興を師とし仕へて終に、補処の弟子と為る、其の付属状に云く。〜
正中二年(1325年)十一月十二日の夜日蓮聖人御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ、日興帰寂の後も若し弟子分中に相続人と号して出さしむるの輩は門徒の怨敵大謗法不孝の者為るべき者なり、謗法罪に於ては釈迦多宝十方三世の諸仏日蓮聖人の御罸を蒙るべし、盗人の科に於ては御沙汰と為て上裁を仰ぐべし、若し出で来らん時は日代阿闍梨之れを相続して本門寺の重宝為るべし仍て門徒存知の為に置き状件の如し。
正中二年十一月十三日 日興御判。 (富要 5-200 )
と、日代八通状の四番目に、重須での盗難事件が記述されています。
そして、三位日順の「日順阿闍梨血脈」には、
幸なるかな・日順幼稚長大の古今には富山に入つて興澄両師の明訓を受け、盛年修学の中間には叡岳に登つて天台四教の幽頂を伺ひ、嘉暦第一(1326年)の暮秋には険難を凌いで本尊紛失の使節を遂げ、同号二年八月に身命を捨てて禁裏最初の奏聞を致す、(富要2 -23 )
とありますので、本尊紛失事件は事実有ったわけです。
まあ、日代八通状自体は「真偽未決」で、限りなく「偽」に近いものと思います。
件の「宗祖御遷化記録」が西山本門寺にある理由は、日興上人よりの指名で重須の学頭を継承したのが日代ですから、その際に「宗祖御遷化記録」を託されたとしても、不思議ではないので、この書に関しては「紛失事件」とは別のもの、と考えます。
-
参考に富士宗学要集の五巻、日代伝をUPしておきましょう。
新六人
永仁已後元徳正慶の間六人の碩徳を選び彼の本六人に対して是を新六人と号す、其の列次智徳を以て本と為す、然るに日澄第二に列するは澄公の没後に之れを列するが故なり、若し年老の次第に因れば澄道妙皆年老なり、澄公は三十三歳年増日道は十二歳日妙は十歳の年老なり、故に年老の次第に非ざるなり、次の代公は初に列する由緒有るか、謂く日澄は日向の弟子後に日興に皈伏して弟子と為り、日道は日目の弟子、日妙は日華の弟子なり、日代、日善、日助は興師の直弟なり、之れに依って新六人第一日代を挙げ給へるか、余は下に至つて之を知れ。
日代伝
釈の日代俗姓は由比、興師の外戚の甥なり、日善の舎弟なり、永仁二年甲午、誕生なり、幼年より富士重須に登り日興に奉仕す、出家入道して伊予と号す、解学日新にして智徳宏深なり、師法器為るを見て当家の深義悉く之れを伝ふ、生智の才有るが如し、故に若年たりと雖も遺状一通日代に賜ふ、其の状に云はく。
一、六人の弟子を定むと雖も日代は日興付属の弟子として当宗の法燈たるべし、仍て之れを示す、正和三年十月十三日日興在判、御歳六十九歳。
(此状代師廿一歳の時下さる故に不審有り法燈二字之を思ひ見るべし生智の才有る事知るべし)。
一、日蓮聖人御法立の次第、日興存知の分弟子日代阿闍梨に之れを相伝せしめ畢ぬ、仍って門徒存知の為め置き状件の如し。
正中二年十月十三日(日興在判日代卅二才御歳八十才)。
一、日興先年病床の時六人の弟子を定むと雖も其の後日代以下の弟子有り。六人の外と号して之れを軽賤すべからず、六人と雖も違背に於ては沙汰の限にあらず、仍つて後証の為め置き状件の如し。
正中二年十月十三日 日興在判。
一、正中二年十一月十二日の夜、日蓮聖人の御影堂に於いて日興に給ふ所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、●に日興影像一鋪、聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ、日興帰寂の後若し弟子分の中に相続の人と号して之れを出さしむる輩は門徒の怨敵、大謗法、不孝たるべき者なり、謗法の罪に於ては釈迦多宝十方三世の諸仏、日蓮聖人の御罰を蒙るべし、盗人の科に於ては御沙汰として上裁を仰ぐべし、若し出で来らん時は日代阿闍梨之れを相続して本門寺の重宝たるべし、仍って門徒存知の為に置き状件の如し。
正中二年十一月十三日 日興在判
一、聖人御門徒各別の事は法門邪正本迹の諍に依るなり、日興の遺跡等法門異義の時は是非を論ずと雖も世事の遺恨を以て偏執を挿むべからず、就中日代に於ては在家出家共に日興の如く思し食さるべく候、門徒存知の為め置き状件の如し。
嘉暦二年九月十八日 日興在判
一、熱海湯地の事、伊豆国走湯山の東院尼妙円の譲状に任せて知行せしめ了んぬ、弟子日代阿闍梨付法たるに依って譲り渡す所なり、仍て状件の如し。
元徳三年十月十一日 日興在判(日代卅七即ち元弘元年なり)
一、定る日興弟子の事
日目 日代
日華 日澄
日秀付日代 日道
日禅日善日助 日妙
日仙 日豪
日乗 日助
右定むる所此くの如し、日目、日仙、日代等は本門寺仏法の大奉行たるべきなり、但し日代阿闍梨を以て日興の補処と為し大聖人御筆の大漫茶羅以下自筆の御書等之れを相伝せしめ本門寺の重宝たるべきなり、本六人新六人共に此旨を存ぜらるべきなり、若し七十以後の状共と号し此の条々棄て置くの弟子等大謗法の仁たるべきなり、在家出家共に此条を守るべし、仍て置き状件の如し。
元徳四年二月十五日 日興在判
日時
日弁
日経
日興日什
日済
日延日定
一、日秀阿闍梨の跡ならびに御筆大本尊、日代阿闍梨に補任せしむる所なり、日興が門徒等此の旨を存すべきなり、若し此の状を用ひざる者は大謗法の仁たるべきなり、仍って置き状件の如し。
元徳四年二月十五日 日興在判
已上是れを八通の遺状と云ふなり、其の間師に代って奏聞の使節を遂ぐ、茲に因つて日興感書を日代に賜ふ。
-
また、HN忘れた。(苦笑)
一、当聖主の御宇奏聞し嘉暦二年八月廿二日廷遠の帥を以て右目録に入れ記録所に於いて庭中せらる、巨細上聞せずと雖も志の所々謹んで下情を抽んで畢りぬ、奏聞の代官使者阿闍梨日代なり、向後の為に記録件の如し。
嘉暦二年九月十八日 日興在判
日興御在世の間は重須に一院を建立し常に之れに居住す今の養運坊是れなり、此に於いて法華経一部書写し全部四冊西山霊宝の随一なり、此時に当り常に法鼓を鳴し盛に法義を研ぐ、日代、日順更る〜師に代つて論談決釈す、其の余の弟子衆互に講談隙無し重須談所此の時甚た壮盛なり、諸国参集の学侶亦夥し、之れに依つて諸人新六人衆を帰依し皆龍象と称す、其の中代公長たり、粤に興師御遷化たりと雖も最前厳重の遺状賜るが故に代師を崇敬すること先師に違はず、興師の跡を相続し重須の貫長と作る、之れに依つて石川重須在処の山林竹木等、先師聖人御在世の如く相違有る間敷き状を日代に進らす(西山にあり)、兼て亦興師遺状の旨を載せて代師を尊敬すべきの由、其の外二代の証跡皆西山に在り、然りと雖も老僧衆多く以て退散し給ふ、所謂日道は大石寺に留守居、日妙は甲州に帰り、日順は下山に籠居す、日豪は北山に隠居す、わつかに残る人は日善日助計りなり、興師初七日の御仏事は日代之れを修し給ふ御説法は日目之を勤る、百ケ日供養は日師大石寺に於て之を修せらる御説法は日代なり、両山大衆聴聞貴賤皆感涙を流す、御供養已って後日代、日目に今此三界の文を問ふ(此に両説有り池上日耀継図抄には日代興師の為の卒都娑に今此三界の文を書畢給ふと日目之を見て之を難じ給ふ云云、亦一説には日代目師に法則を問ふ云云日目之を答ふ云云、二説ともに同文なり云云)、此の問答を聞く人皆疑心を含む又云云。
建武元年正月七日、興師御斎日初めの供養以後日仙の坊に於て方便品読不読の問答あり、茲に因って重須の大衆等互に悪心を生じ各相誹謗す、石川式部太輔之れを聞き僉議して云はく若し日代本迹混乱有らば先師に違背するの仁なり速に擯出すべしと云って日代を駆除し畢りぬ、代公重須を退去して大石寺に移り且らく小庵を結び住すと雖も終に川合に竄謫す、其の後西山の辺境に移り寺を立て片隅に迂り寺を結ぶ、是れより来た日代、日善、日助の三人一同に奏聞を遂ぐ(奏状別紙に在り)終に茲に於て不退の勤行し給ふ。
御講談の間、甲州其の外所々に於て弘通之れ有り、有縁の地には寺を立て各弟子衆支配し給ふ、老年の後に常に富士に閑居し給ふ、亦本尊所望の仁之れ有る時は則書写し奉り之れに授与す。されば甲州府中上行院の本尊に云はく。
日興聖人
伝燈日代判
満九十
書写之
永徳三年十月日
又武州江戸上行
院の本尊に云はく
日興上人
遺弟日代判
貞治四年七月日
何の輩か斯の如く本尊書き給へるや、但し日目、日代計り斯の如し。
上寿長年なるが故に御弟子衆御遷化して師独り久住し給ふ、是の故に未決の議有れば日代に問ひ奉り決定せり(日印造仏の義日代の問ひ奉る日代の返状之有り日印の下に至り其状とも之を出す往て見るべし)。
明徳五年甲戌四月十八日行年一百一歳にして御遷化なり、日任以下弟子衆寄り合ひ給ひて茶毘し奉る事終りければ御骨を拾ひ取つて芝川西に御墓をつき之を納め奉る。
竊に日代上人重須を出づるの濫觴を尋ぬるに昔より相伝して云はく日代本迹混乱に因つて重須を擯出し奉り畢りぬ、之に就て証拠を校考するに分明の証文無き故に且らく糺明し難し、之れに依つて建武元甲戌より今明暦三丁酉に至つて三百廿余年の間、重須西山の両寺互に憎嫉を生し各誹謗を作し須臾も我執を止むること無し、重須日国の時に当り書状を以て日代の謗罪を難ぜらる、西山の返答に云はく日代に於ては本迹一致の謗罪無し日代の嫡弟日任児たりし時の身延山の皈伏僧にして本迹一致の説を作り畢りぬ、(此返答重須に在り)、諸人日代の謗罪を日任に附せらるるか、疑ふに亦日辰と日春と書状を以て代公と諸師との迷不迷を穿鑿せらる、日春の返報に云はく世事の遺恨強盛にして、殊更俗縁を以つて事を建武正月の問答に寄せ壇那押し掠めて日代を擯出し奉り畢ぬ、日国難状の返答には世事の遺恨強盛にして壇那押し掠む等と謂はず、而して今日春始めて此の義を成せらる故に亦疑滞を残す者なり、又小泉久遠寺日是書状を西山日心に贈り西山重須両寺の和談を謂ふ、日心返状を小泉に贈る其の状に云略して云はく、日妙門徒は是れ盗賊大謗法なり云云、之に依つて証文を尋ぬるに数通有りと雖も髣髴として分明ならず、然りと雖も先哲之れを出し而も以つて証拠と為す故に今亦之れを出たす、日辰上人三文を引いて証と為す。
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影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、
この「日興に給はる所の御筆本尊」とは続く文「弘安2年の大御本尊日目○○○○之を授与す」
の日目譲り状ですね?
此の本尊は大石寺の板本尊説は別にして、万年救護本尊説が有力ですね?
此の盗難伝説が事実なら、盗難に有った救護本尊が何故日目師の蓮蔵坊に有ったか?
不謹慎ですが、此の件は美濃周夫氏も謎のまま口を閉じています。
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其の一には日向国日知屋定善寺日叡自筆の記文に云はく、建武元甲戌正月七日、重須大衆蔵人阿闍梨日代、太輔阿闍梨日善大進阿闍梨日助等其の外大衆大石寺日仙の坊に来臨せり、大石寺大衆等多方た他行なり、有り合せらる人数、伊賀阿闍梨(日世)師弟(日郷)下坊の御同宿宮内阿闍梨(日行)其の外十余人なり、時に日仙仰せに云はく日興上人入滅の後代々の申し状に依つて迹門たるの間方便品読むべからず文、重須蔵人阿闍梨日代問答口として鎌倉方の如く迹門に得益有りと立てらる文、日仙は一向に迹門方便品は読むべからず文、是れ又日弁天目の義に同篇なり、然して当日の法門は日仙勝ち申さるるなり日叡其の座に有りて法門聴聞す、結局重須本門寺大衆等の義、元より日代五十六品と云ふ法門立てらるる間、高祖聖人並に日興日目等の御本意に非ざる故に本迹迷乱に依つて重須大衆皆同列山して日代を擯出し奉り畢りぬ、末代存知の為め日叡之れを験るし畢りぬ已上(正筆九州に之有り)。是れ則列座聴聞衆の記文の故に之れを出す、西山日心等要法寺日辰之れを引いて証と為し給へり、但し此の文方便品読不読の記文にして本迹迷乱の証と成るべからざるか、日道日妙自筆の状も此の如くなり。
二には日尊実録に云はく日尊上人仰せに云はく(暦応三五中旬)冨士門跡一同に云はく迹門を破して本門を立つべし云云、是れ名目一同の義なり、之れに付いて方便品は迹門なり何ぞ之れを読まんやと云ふ難之れに依って面々会釈不同にして法門異義水火なり云云、諍論出来して一遍に落居せざる故に法門浅深、相伝の有無量り難し、名目の幢を出して義趣を顕すべし云云。
一、河合人々の義に云はく方便品に読むべき方、読むべからざる辺之れ有り、先づ一住所破の為に之れを読むと云云、次に再往の内証の実義は読むべきなり、其の故は迹に即して本、本に即して迹と天台釈し給へり、故に本に即して迹なる故に迹門とは云へども本なる理有る故に読むなり、内証に所破と云ふ事之れ有るべからず云云、薬王品得意抄に准じて迷乱か、其の故は爾前星迹門月本門日なり云云、是れは此抄修行の躰なり、又十章抄に准じて修行せば一念三千の出処畧開三の十如実相なれども義分は本門に限る文、是れ文在迹門、義在本門の意なり、次に本に即して迹、又本なる理等とは天台本門の十妙を釈するに迹の因果等に四教の因果有り即の故に亦爾前経をも読むべきなり、此れに例難有り故に此の義不可なり、次に内証所破と云ふ事之れ有るべからずとは、記の九に云はく又地裂とは地本眷属を覆ふ迹の本を隠すが如し、今は開迹顕本の故に地裂して之れを表はす文、文句の九に云はく聞命の故に来り、弘法の故に来り、破執の故に来り、顕本の故に来る云々、又下若し来らずんば迹破することを得ず、遠顕はすことを得ず文、此れ等の文皆迹を破せん為なり、何ぞ所破の義無しと謂はんや、五人所破抄に一には文証を借り二には所破の為と云ふ二義は此の意か。
上野重須一同の義に云はく方便品は所破の為なり、此の品は譬へば敵方の訴状の如し、寿量品は自分の陳状のごとし、爾れば先づ敵仁の申し上くる訴状捨つべき方此くの如しと読み上けて、次に寿量品今家所立の元意当時弘通の至極と存じて読むなり、故に方便品をば読んで即捨つるなり、方便品に得道有りと云ふ者は宛も念仏無間等の如し。
上蓮房阿闍梨日仙の云はく此の事皆非なり、読んで捨つるも直に捨つるも同じ事なり、爾らば一円に方便品をば読むまじきなり、捨つると云ひながら、読み加ふる事非なり、処々の御書に曽つて之れを読むべからずと見えたり云云已上。
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第三に大石寺の記文は日鎮自筆の記に云はく、応永六年己卯十月下旬、助に対して御物語に云はく重須の在処等の付弟は上人よりは日代に付け給ふなり、爾るに迹門得道の法門を蔵人阿闍梨立て給ひし程に西山に退出し給ふなり、此の法門は始は我と必しも迷ひ給はず讃岐の国の先師津の阿闍梨百貫坊と召さる、日仙の云はく我は大聖人日興上人二代に値ひ奉り迹門無得道の旨堅く聴聞の故に迹門を捨つべし、爾らば方便品をば読み度くも無き由を云はるる時、日代、日善、日助等之れを教訓して法則修行然るべからざる由を強いて之れを諌め天目にも之れ同しなんど云ひけるなり、此くの如く云ふままに後には剰へ迹門を助け乃至得道の様に云ひなして此の義を後には募り給ふまま此の法門は出来しけるなり、日代云はく施迹の分には捨つべからずと云云(私に云く此の文日叡日満記録に此の義なし但し日仙と問答の時の言葉なり云云)、かかる時僧俗ともに日代の法門謂れ無き由を申し合ふ、其の時石川殿諸芸に達したる人にて又学匠なりしが我れさらば日道上人え参つて承はらん、已に彼の御事は聖人の御法門をば残る所よもあらじと思し召すなり、さて此の由を問ひ申す時、日道上人仰せに云はく施開廃の三ともに迹は捨てらるべしとの給ふ、聴聞して之れを感じ彼の仁重須に帰り云はく面々学文が未練の故に法門に迷ひ給ふ、所詮此後は下の坊へ参つて修学し給へと申す、然るべしとて今の坊主宰相阿闍梨日恩其の時は若僧にて是れも学徒の内にて是れへ通ひ給ふなり、乃至此くの如く有るままにて日代も出で給ふまじかりけるが、剰へ、すすはきの時先師の御坊を焼き給ひし縁に其の儘離散し給ふなり、やがて坊主に成るべき人無かりし程に侍従阿闍梨は日興上人の外戚に入り給ふべき程の強義の人なり、我か計ひに日妙を坊主に成し給ふなり已上。
予未だ此の記文を見ずと雖も既に日辰上人の御引証なり故に之れを出す、此の記に就て多く相違有り如何となれば日目上人正慶二年十月の末御上洛なり是の故に大石寺に住し留守居なり、同十二月より遺跡に付いて相論有り、正慶二より建武二に至る三年に三度の対決の故に日道小事と云ふと雖も綺ふ能はず、爾るに下の坊に参り修学と云ふ事、次に叡記に違す、彼の記に云はく重須大衆皆同列山して日代を擯出し奉り畢ぬ、今の記には焼亡に因つて自ら退出と、然るに叡記には同日即座の記文なり、鎮記には百四十余年後の記なり、次に日有りの記に違す、彼の記に云はく日代云はく施迹の分には迹門を捨つべからず文、日仙云はく当家施開廃三ともに迹を捨てらるるべし云云、此の記に日道云はくと云へる文なし、此くの如く相違有る故に鎮記信用し難き者なり。
其の上侍従阿闍梨と云ふ人是れ何人ぞや、記録等には侍従公と云ふは日朝の事なり此れ若輩衆なり、争か若輩の身を以て興師の遺跡を計ふべきや、唯石川殿御計ひにて日妙を居え給ふと云ふ事便り有るか、況や西山日春の答文亦以て此くの如し、実録の義ならびに日耀の義正たる則んば迷乱疑ひ無し、但即座の記文に非ずと云はば伊賀公日世即座聴聞衆なり、縦ひ日尊京都に有りと雖も弟子日世即座なり、両師の問答聴聞せり何ぞ相違有んや、所詮三百余年の星霜を経て分明ならざる者なり、本迹迷乱実否且らく置いて論せず石川殿日代を信ぜざる故に擯出せるなり、次に擯斥に就いて能擯所擯あり所擯は日代、日善、日助等なり能擯の中に日華、日乗、日道、日郷入るべからず、其の故は日叡の記文に重須の大衆皆同列山して日代を擯出し奉り畢りぬと、此の記に重須大石の大衆と記せざる故に況や日華は妙蓮寺に蟄居し日乗は小泉に閑居し日道は行泉坊の開基なれども日目上洛の留守居にして大石寺大坊に居す、日郷は目師に御伴して上洛、帰国の後は蓮蔵坊に住す、故に此の二人も入るべからず、故に能擯は日妙日豪等なり石川殿は能擯の大将なり云云。
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確かに、
「日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ」
とありますが、「日興に給はる所の御筆本尊」は非常に気になります。ある研究者の方は、根拠は教えてくれませんでしたが、日蓮大聖人在世の身延の草庵には「万年救護本尊」を奉安、弘安2年に日興上人に授与。弘安3年に「臨滅度時本尊」を奉安、身延から池上に向かった時に持参し、池上で最後臨終の時にも奉安。
現在、「万年救護本尊」は日興門流の保田妙本寺に有るわけですから、大聖人は日興上人に万年救護本尊を授与した、というのは首肯できるものがあるわけです。問題はその後で、結果として、日目の手元に有るのは何故か?ですね。
「宗祖御遷化記録」は重須の貫主となった日代に授与されたのかな、と考えますが、ならば万年救護本尊も日代では?となるわけです。
日蓮正宗だったら、日興 ⇒ 日目ですから、当然、その時に万年救護本尊も授与云々と主張するでしょうが、それもおかしなものがあるのですね。というのは、「二箇相承書」は北山本門寺から登場しているからです。本当に日興 ⇒ 日目への相承の儀式みたいなものがあったのなら、何故、「二箇相承書」が北山本門寺からぴょこんと登場するのか。日目の大石寺からではない。
この史実自体、大石寺の「血脈法水相承」と矛盾しているわけです。
万年救護本尊も日興上人の元に有ったものの、空白の後、結果として日目の手元に有った。
この「空白」に何が有るのか?ここが富士門流史でも謎であり、秘められた歴史を感じさせてくれるものでもありますね。
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此れはあくまで自分の想像で、間違っていたら関係者にお詫びします。(日代上人疑ってすみません、合唱)
日目師の画像、文献見ても到って真面目な方と思いますのでそんな大反れた事が出来ない方と思います。
ただ、南条、新田小野寺家が日目師想いで勝手に余計なお世話をしてしまったら?
当時の大石寺は蓮蔵坊以外殆ど無住で余り機能していなかった。日目師も70歳を越えた高齢で、最後の天奏と共に
京都にて余生を送ろうと考え、親類の南条、新田家にそれとなく話していた。
しかも当時鎌倉幕府が衰え、親政が始まるかも知れない。今度こそ天皇(後醍醐帝)に折伏出来るかも知れないと高齢を押して天奏の準備していた。
それを見ていた南条、新田家は「しかし開山の法灯は日代師が指名され、日目師は大石寺の法灯を譲られたとは云え実体は蓮蔵坊だけの住職に過ぎない。
単なる一坊舎の住職に天皇は会ってくれるだろうか?宗祖、開山の法灯を継いだと云う証拠と箔が有るといいのだが」と
思い、邪まな考えが浮かび北山重宝の窃盗を実行してしまった。
良かれと思い、北山重宝を差し出した南条、新田家に対して日目師は呆れ、激怒した。
しかし、もう北山では大騒ぎになっているし、今、自首させたら両家は間違いなく破門になる。
そこでほとぼりの醒めるのを待って、お詫びしながら重宝を返却した。日目師の心を分かって北山も此の件は内密にした。
ただ、万年救護本尊は天皇に戒壇本尊としてお見せしたいとお願いし、天奏のさい借りて所持して行った。
高齢を押して天奏に向かわれた日目師無念にもは垂井にて遷化された。お供の日尊師は日目師の遺骨を抱いて京に向かい、日目師後継者の日郷師は万年救護本尊等日目師の所持物
と共に大石寺に帰ってきた。おそらく日郷師は救護本尊を天奏の為というより、日目師が京にお堂を立て住み掲げる本尊と思っていたのかも知れない。
だが、師匠日目師は遷化された今、京の布教は日尊師に任せて、蓮蔵坊を目師門布教の拠点にしょうと考えたかも知れない。
房州等布教の人生だった日郷師は北山重宝事件は余り知らなかったろうし、北山も親類の南条、新田家の恥さらしになるので、日郷師に返却を言わなかったかも知れない。
ただ、救護本尊盗難には日目師が関係していると勘違いした日善師門が「日目は開山の置き状に違反して」と嫌味?な文を書いたのを覗いて。
そのうち、日代日仙問答、日代師日興一族の北山追放、道郷騒動など起こり興門派は暗黒時代に入る。
日時師の代、道郷騒動も収束し、大石寺史(三師御伝土代)を記する際、弘安2年に
興師授与救護本尊を記する時、目師一族盗難云々が引っかかり、「日興上人号本尊」と曖昧に記した。
又、興師代盗難救護本尊日目所持の理由付けに、(日目譲り状が偽書ならば)
「日興が弘安2年に給わった大御本尊○○○○之を日目に授与する」と文献を作った。
不謹慎ですが勝手に想像しました。如何でしょうか?
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あと少しで1000ですね!
新スレを立てて、板本尊、道郷騒動等論じて行きたいので
どうぞ宜しくお願いします。
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