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樋田氏との法論に関して
87
:
沖浦克治
:2007/06/28(木) 19:57:10
『仏に三十二相有す皆色法なり、最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は可見有対色なれば書きつべし作りつべし梵音声の一相は不可見無対色なれば書く可らず作る可らず、』
(木絵二像開眼之事)
仏は三十二相を備えてるが、それは全て物質的な存在である。足の裏、あるいは掌に千の輻輪 (軸のまわりに矢の形をした輻を放射状にとりつけた輪状のもの) の肉紋があることから、頂を見ることができないという相までの三十一相は目に見えるものである。
故に、絵に書き表す事も、像に作り表現する事も出来る。
然しながら梵音声の一相は、目に見えないものであるから書き表す事も像に作ることも出来ない。
『仏滅後は木画の二像あり是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり、生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり、』
釈迦滅後、木絵の二像を持って仏としたが、梵音声が欠けており仏ではない。また、心が欠けているので仏とは天地雲泥の差がある。
『何ぞ涅槃の後分には生身の仏と滅後の木画の二像と功徳斉等なりといふや又大瓔珞経には木画の二像は生身の仏にはをとれりととけり、』
どうして釈迦滅後に、絵像木像を生身の仏と功徳が同じなどといえるのであろうか?
大瓔珞経には、木絵の二像は生身の仏に劣ると説かれているではないか。
『木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり、但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに、』
木絵二像の前に経を置けば三十二相が具足する理屈ではあるが、心が無いので仏ではない。
人天にも、転輪聖王のごとく三十二相を具えているものがあるので、前に置く経文で木絵二像の立場が変化をする。
(大智度論には次のようにある。
三十二相は転輪聖王にも亦た有り、諸天・魔王も亦た能く此の相を化作す。)
『木絵の三十一相の前に五戒経を置けば此の仏は輪王とひとし、』
木絵二像の前にを置くなら、その木絵二像は輪王となる。
『十善論と云うを置けば帝釈とひとし、』
十善論を置くなら帝釈と等しい。
『出欲論と云うを置けば梵王とひとし全く仏にあらず、』
出欲論と云うものを置けば、梵王と等しく全く仏ではない。
『又木絵二像の前に阿含経を置けば声聞とひとし、』
阿含経を置くなら声聞とひとしい。
『方等般若の一時一会の共般若を置けば縁覚とひとし』
方等般若の一時一会の共般若を置けば縁覚と同じである。
『華厳方等般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏に非らず、』
華厳方等般若の別円を置けば、菩薩と等しくなり全く仏では無い。
大聖人様は、木絵二像の前に置くものにより、その立場が変化する。と、明快にご指南されておられます。
ここで問題になるのは、日蓮正宗は法主による開眼の衣文として、この御書の後段を切り文して用いている点です。
『法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し、今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ鬼をば奪命者といふ』
法華経を心得た人が木絵二像を開眼せず、仏法の道理を心得ない人が邪教を持って開眼すれば、木絵二像は前に置く経文で立場が変化する不安定な性格を持つのであるから、かえって鬼が入って脱命者となるのである。
このように仰せですね。
ここで仰せの木絵二像は、大聖人様御図顕の御本尊様とは全く異なります。
大聖人様御図顕の御本尊様の前にどのようなものを置こうと、御本仏様の御命そのものです。
ですから、御本尊様は前に置く経文などによってお力が左右されるような不安定なものではありません。
この木絵二像の開眼を、法主による蓮祖御図顕の御本尊様の開眼の衣文としている事は、日蓮正宗が本尊に迷う宗派である、何よりの証拠です
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