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樋田氏との法論に関して
35
:
破戒坊主
:2007/06/21(木) 17:44:59
法論を拝見させていただいた者のひとりとして、他宗ながら書き込みさせていただきます。
まず、法論というものに対して、私が思うところは“法”のもとでの意見のぶつかり合いです。テーマに於ける機械的な引用の提示のみというのは単なる“答えあわせ”みたいなものであって、論じているということにはならないでしょう。
今回私は、沖浦さん側と樋田さん側に大きな違いを感じました。非常にご無礼なたとえですが、沖浦さん側が翻訳ソフト型で樋田さん側がデータベース型といったところでしょうか。どちらも一長一短があり、前者は柔軟性に富んだ実践向きな長所があるが“私見”“ご都合主義”で片付けられてしまう短所があります。それに対して後者は理路整然として説得力があるという長所があるが、自分の意見を加味することが出来ないのと、思想の違う相手と論議した場合、相手が折れなければ永久に平行線をたどって絶対に結論が出ないという短所があります。
私は法論では前者でなければならないと思います。
さて、肝心の内容ですが“開眼”ということについてですが、意見が分かれてました。宗派による違いということでは、どちらが間違っているということは無いと思います。
ただ、気になったのは、正宗側の“正宗という宗旨でなければ魔札(ニセ)である(になる)”という見解です。他宗からしても到底納得できるものではありません。というより、人が信仰の拠所としている存在を“魔”だの“ニセ”だのと平気で言い放てるなど・・・踏み絵のような発想にしかみえません。そういう発想の集団が他に対してどういう存在となったか、歴史をみれば一目瞭然です。確かに特定の宗派を騙って民衆を惑わすカルト的な存在に対して、宗派独自の規定と本尊様等の意義を持つことは必要でしょうが、手当たりしだいというのは良いとは思えませんね。
もうひとつ思うに、正宗が“正”として開眼した本尊様が学会の人の手に渡ると途端に“邪”に変貌してしまうという、本尊様としてのスタンスの不安定さと、本尊様自体の“正邪”を“人”が認定できるということが、まるで本尊様のほうが悟りを得てない従者のように捉えられてしまいます。
また“開眼”というのは“本尊様の完成型を人為的につくりだすこと(趣意)”という発言がありましたが、これもなにかしっくりときませんね。なんとなく僧侶や学識豊な人が、それ以外の信者を置いてけぼりにしているようです。信者の菩提心の眼を開くというのが開眼の第一にくるべき意義ではないでしょうか。
かいつまんで書いてみましたが、時間が取れ次第、おいおい書いていきたいと思います。
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