したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

樋田氏との法論に関して

18卞氏:2007/06/19(火) 18:27:40
詳しくは分りませんが、
結局のところ、信仰する人が「歪んだ偶像化」をしていたり、
「神がかり的存在」としてみてしまうなんてことがなければ、概ね健全でしょうね。
それは教団の指導者の責務ですよ。

日蓮大聖人が「御書」を残されたという事は、この上ない幸運なことです。
御本尊を思索するうえでこんなに優れたものはありませんね。

 ***

「本門教主釈尊」とは本門寿量品に登場するもう一人の釈尊(理の釈尊)か。

これも、分りずらいですねー。所詮人師の解釈の一部分ですから
なんともいえないですねー。混乱の元でしょう。

例えば大聖人が報恩抄で「信ずべき対象」として言われるものは「本門教主釈尊」です。
この呼び名を使用するケースは随所にありますが、
理の釈尊というつもりで言われているわけではないでしょう。
大聖人が、信ずべき対象を表現するにこの言葉を使ったものと拝されます。
ここで時代を引戻し我々の立場から見れば「御本尊に縁をした最初の弟子」と読み替えることができます。

弟子という言い方をするのはなぜでしょうね。
法華経文上での釈尊は大聖人のような振る舞い方をしていないからでしょうか。
実際釈尊は大聖人の様には振舞えていない。本当の弟子ならば御本尊に等しい筈です。
法華経で説きたかったところの本尊(教主釈尊)に最初に縁をしたのが誰かといえば、
それは大聖人であるというわけですね。

釈尊も御本尊によって成仏する事ができた衆生の一人(迹)で、本門寿量品教主釈尊により久遠実成が明かされたことになるので、そちらは(事で本)になるはずですが、
しかしながら法華経という経典の上での話ですから(理で本)とすることができますので、(理の釈尊)という言い方が当てはまるともいえますね。

現実の上で御本尊を明らかにした最初の最初の張本人は大聖人なのである(事で本)
とすれば、法華経という経典の上での話はすべて(理)なのは当然です。

こんな読み方ではないでしょうか。なーんかややこしいですが。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板