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雑談スレ
766
:
正樹
◆6z10n91cnw
:2008/01/21(月) 23:49:34
『日本の原爆記録6−蜂谷道彦「ヒロシマ日記」、中国地方
総監府誌刊行会「中国地方総監府誌・原爆被災記録』
−326頁・381頁・389頁−
武藤文雄
当時・総監府副参事官で総監秘書官、現在(正樹注:1970年
(昭和45年)8月6日)・佐藤工業株式会社副社長
副総監の服部さんは、運良く軽傷で、残務整理に奔走された方
であったが(正樹注:同書326頁「(広島文理科大学に設置された)
総監府も全焼していました。そして、掲示には、『大塚総監戦死、
服部副総監は第2総軍司令部で指揮中』とありました」)、全く
惜しい人を失った。フィリッピンで司政官をやっておられたときの
責任を取り、フィリッピン政府に呼び出されて、とうとう処刑されて
しまった。私はその後、群馬県の警察部長になったが、23年に
国警本部長に任命され、ついで総理大臣秘書官を勤めた。あの当時は、
世相も混乱状態で、国警にも赤旗が押し寄せ、政治、経済などの
運動やデモの対象とされた。「米を寄こせ」とか、「戦災者をどうして
くれる」と言った無理難題に、毎日のように応接しなければなら
なかったが、そのようなときに、「私も広島で被爆して、辛うじて
生命を取り留めた。一人だ」と言うと、相手も態度を変えてくれて、
帰るときには「身体に気を付けてくれ」と言う人もいた。しかし、
アメリカ側は、私共被爆者の言動には、かなり神経を使っていたので、
そうした面からも、私は難しい立場にあった。
>しかし、アメリカ側は、私共被爆者の言動には、かなり神経を使っていたので、
>そうした面からも、私は難しい立場にあった。
何で、米国が日本国内での原爆コードを始めとすることでの報道管制や郵便
検閲や仇討ち者などの演劇禁止を敷いたかと言えば、逆に言えば、日本人を
怖れていたからだろう。
武力戦に負けた途端に、総崩れになり過ぎたのではないか。
無条件降伏後に心理戦で、もう少しやりようがあったのではないか。
例えば、原爆惨状を国民に普及させるとか。
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