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雑談スレ

750正樹 ◆6z10n91cnw:2007/11/20(火) 22:07:11
 
          『「悪魔」と「人」の間−「731部隊」取材紀行』
          (下里正樹:日本機関紙出版センター)
          −143頁〜153頁−
          10 ある下級軍属論文の運命
          1通の学術論文がある。
          表題は「F・Tの一診断法に付(つい)て」。手書き・
         ガリ版刷り、原稿用紙6枚の小論文である。論文の筆者は
         H・K氏。昭和16年から敗戦の年まで第731部隊有田班の
         雇員として、同部隊に勤務していた人物である。
          論文の内容は未公開の物ではない。既に戦前の昭和19年に
         『陸軍軍医団雑誌』『日本細菌学雑誌』等にも研究の一端が
         発表され、従来の発疹チフス診断法に画期を開いた新研究として
         細菌学界から高い評価を受けた。が、まだ生存中の本人の
         強い要望でH・Kなるフルネームの公表は避ける。仮に、
         その名を保地清志としよう。
          H・K雇員−保地清志は、医学者ではない。保地は戦前の
         尋常小学校を卒業しただけの学歴である。医学についての
         専門教育を受けたこともない。身分は下級軍属である。
          だが保地清志論文は第731部隊の残した、所謂(いわゆる)
         「数ある医学的業績」の中でも出色の論文として一部専門家の
         間に記憶されている。
          保地論文が現れるまで、発疹チフス患者の発見は、もっぱら
         ワイル・フェリックス反応と呼ばれる診断方法によってなされて
         いた。
          だが、ワイル・フェリックス反応を用いた診断には、いくつかの
         弱点があった。
          「私が配置されたのは、有田班だった。キャップは有田
         軍医少佐で、この人はアメーバ赤痢研究の大家であると聞かされた。
         有田班には、東大、東北大、京大、九州大など各帝大から
         7〜8人の医学者が軍属として勤務していました」
          保地清志の回想は続く。
          「私は、有田班の中のリケッチャ研究チームに配置されました」
          リケッチャ研究チームに浜田某と名乗る四国出身の少壮気鋭の
         医学者がいた。これもフルネームの公表は避ける。後(のち)に、
         「保地・浜田氏反応」の呼称に登場する人物である。
          最大の弱点は、診断決定までに時間が掛かり過ぎることであった。
          ゆえに、治療が手遅れとなり死亡率が高かった。
          石井四郎に代わって昭和17年から第731部隊長として
         赴任した北野政次は、ハタリスの生理サイクルを利用した
         ワクチン製造システムを作り上げた。
          また、第731部隊岡本班のキャップ・岡本耕造は、大黒
         ネズミの肺を用いたワクチン製造方法を完成した。
          患者の血清に反応させると、僅か10秒〜1分以内に凝集
         作用を起こす。既に書いた「保地・浜田氏反応」である。
          面倒な準備と長時間の判定作業、常温を保った研究室を
         必要としていた、従来のワイル・フェリックス反応による
         診断方法とは違って、「保地・浜田氏反応」を用いると、
         中国東北部の冬季低温の下でも、簡単かつ正確な診断結果が
         得られた。


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