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雑談スレ

735正樹 ◆6z10n91cnw:2007/10/14(日) 21:24:55
 
 原爆被爆者対策「こんな選択もあった」
 
     『武谷三男著作集第3巻−戦争と科学』(勁草書房:武谷三男)
     −75頁〜91頁−
     原爆下の日本
     C ヒロシマはこうなっている!(1950年の広島)
     1 広島市の印象
     私は原子爆弾のことなどを調べたり聞いたりして来たが、戦後は一度も
    広島も長崎も訪れたことはなかった。そこで、今度は広島県の成人講座で
    話をするために広島に行く機会に、できるだけ多くを見たいと思った。
     私は、太平洋戦争の少し前に一度、広島を訪れたことがある。それは
    昭和16年の4月の物理学会があったときで、その頃の広島は陸軍の
    重要な基地で、広島市を歩いても軍事一色に塗り潰されていて、最も
    軍事都市の名に相応しい都市だった。
     だから、広島が新型爆弾で吹き飛ばされたと言うことを聞いても、
    あのような軍事都市ならば、そのような標的に選ばれると言うことも
    あり得ることだと考えたくらいである。
     2 原爆被害者を訪ねて
     東京などでは、「7人の原爆娘」がすっかり人気を呼んだが、あんな風に
    少数のモデルケースと言うものを作って、それの治療や保障をやって、
    全ての問題が解決したように宣伝するやり方はアメリカ式だが、一般世間から
    体裁は良く、この看板に対して、俳優まで動員してお祭り騒ぎをやって、
    寄付の集まりも大変に良いのだが、一向に問題は解決しないし、取り残された
    大部分の被害者の反感を買い、この状態を益々悲惨にするだけで、何の
    取り得もない。
     6 日陰に喘ぐ患者
     これらの原爆被害者を訪れて感じたことは、まず何よりも速やかに
    社会保障が確立しなければならないことである。実際に被害者は何事にも
    不利な状態にある。身体に障害があって満足に働けない上に、家族を
    多く失っている。醜い顔や手足のために、店員、事務員、学校関係など
    と言う多少肉体的に楽な職に就くこともできないのである。実際に広島の
    繁華街を歩いてみても、原爆で顔や手をやられた人を見ることは稀(まれ)である。
    これらの人達は、このようなところに出ないようにしているだけでなく、
    また出られないような境遇にあるのだ。そして日陰的な場所で困難な
    生活に喘いでいるのである。
 
 1948年に新素材『半導体』のことが新聞に発表されたのだから、原爆被爆者
救済事業として、国立なり広島県立なり長崎県立なり広島市立なり長崎市立なりで、
原爆被爆者を優先的に採用する政策もあり得たのではないか?
 半導体の素材研究や、或いは冶金(やきん)などの金属素材研究を、つまり、
より安定していることや高性能の構造などの研究は、実際には材料を混ぜて
組み合わせて作ってみて調べることだから、尋常小学校以上の学力があれば、
通用することだし、また必要ならば、職場研修で理工系知識の習得をさせる
こともできたはずだ。
 広島に、100メートル道路などの公共土木事業をする費用で、より多くの
人数の原爆被爆者を採用することができたはずだ。
 それに原爆被爆者は、疲労しやすく直ぐに疲れるので、肉体労働は苦手なの
だから、デスクワークに近いことでの物質混合試験などの方が合っているのだろう。


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