したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

雑談スレ

684正樹 ◆6z10n91cnw:2007/07/18(水) 21:17:26
 
>>683
 
 けいさつの_あほども_え さんに再会することができて幸せです!(^^ゞ
 
     −−122頁−−
     宮崎駿−−−まぁ、日本人は戦争には向かないってことちですよ。
          向かない方がいいんだけれど・・・・・。いろいろなことを
          知ればそう思います。職業軍人には向かないんですよ。
          すぐに小役人の巣になっちゃうんです。
           韓国の朴大統領って言う人がいたでしょ。僕の知り合いに、
          あの人と陸軍士官学校で同期だったって言う絵の具屋の
          おじさんがいて、その人は少尉で戦争が終わっているんです
          けれど、その人にね、当時の装備を聞いたんですよ。
          もう戦争の末期ですよね。すると、よく聞いてくれたって
          言う感じで嬉しそうに話してくれんたんですよ。九九式
          小銃で各部隊1挺ずつ九六式軽機関銃を持ってて、擲弾筒を
          パアーッと撃ち込んでね、撃ち込みながら走って行って、
          その爆煙が晴れた瞬間に敵の塹壕に飛び込むんだって。
          こうすれば勝てるんだって。こりゃダメだなと思ったよ、
          ツハハハハッ。
           秀才を集めた陸軍士官学校の一線のバリバリの言うことが、
          これじゃダメですよ。そんなもんだったんスよね、テヘヘヘッ・・・・。
 
     『宮崎駿の雑想ノート』(大日本絵画:宮崎駿)
 
 戦争下手であったことは、支那事変から大東亜戦争までだろう。
 それの直前の石原莞爾氏が主導した満州事変は大成功だったし、日清・日露
両戦争は非の打ち所がないし、明石大佐の対露謀略工作は芸術の域に達している。
 
     −−292頁−−
     明石元二郎
     12個師団に匹敵した工作
     生没年:1864年〜1919年。
     職業:日本陸軍大佐。後に陸軍大将。
     所属機関:児玉参謀次長直轄
     コードネーム:アバズレーエフ
     明治37年(1904年)の日露戦争開戦時、ロシア公使館付武官。
    開戦によりストックホルムに移動。参謀次長・児玉中将の「ヨーロッパの
    ことは貴官に一任する」との直接命令により、ロシア国内攪乱工作開始。
    ロシアに反抗するフィンランド反抗過激派党コンニー・シリヤスク、
    フィンランド憲法党カストレンらと接触して協力を得て、同年10月には
    ポーランド革命党、グルジア党などを糾合、パリ会談で「共同の敵は
    ツァーリズム」のスローガンを決定。各党の活動は翌・明治38年に
    掛けて激化。同年6月の黒海での戦艦ポチョムキンの反乱に際して、
    明石大佐は指導者デカンスキーに資金を援助。その他、反乱勢力に対しては
    高田商会の協力で武器、弾薬の補給輸送を実施。ドイツ皇帝カイゼルが
    「12個師団に相当する」と激賞した明石大佐が帰国した時に、出迎えは
    児玉大将一人のみであった。
 
     『歴史読本臨時増刊1988年6月−特集・世界、謎のスパイ』
     (新人物往来社)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板