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立命館大学大阪進出
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であれば林淑美の村山知義に関する重要な論述「村山知義の「マヴォ」前夜,一九二二―
一九二三」26)における次の一節は若干の修正が必要となると言えまいか。
ここで問題にするのは,村山知義がベルリン土産として「ダンスの本質につマ マ
いて」となら
んでマリネッティの触覚主義の紹介を試みているというところにある。身体の運動の再構
成であるダンスへの関心と触覚への関心との同時性は,視覚の特権化を疑って触覚の特権
化につながりそうなマリネッティの触覚主義より本質的な,物と精神との相互作用性,そ
れは媒介する物質の主体としての身体というものへの考察になるだろうからである。/ わた
しが物に触れるとき,わたしは必ずわたしの身体によってそれに触れるのであり,見ると
きのようにわたしの身体の媒介を忘れてしまうことはできない。(中略)物に触れるわたし
は,わたしの身体を通して世界に対する自らの特権性を剥奪し自らを世界に開いていくだ
ろう。
林は村山知義の「マリネッティの触覚主義の紹介」と「身体の運動の再構成であるダンスへ
の関心」との「同時性」を強調する。身体の媒介を不可欠とする「触覚」と「ダンス」とに近
接性を指摘できるとするなら,さらにそこに<自慰>をも呼び込むことはできないだろうか。
村山にとって自身が踊るダンスとはそれが撮影され,その写真を村山自身が見つめるというナ
ルシシズムにも意義があったはずだ。そこには,そのヘアーとヌードの身体をともすれば「淫
賣に賣られたる少女」への変態(メタモルフォーゼ)を遂げた裸体として欲望しているやも知
れぬ自身が自ずと現象している。「わたしが物に触れるとき,わたしは必ずわたしの身体によっ
てそれに触れるのであ」るとすれば,踊る村山にとって「わたしの身体によって」「触れる」先
にあるその「物」とは「わたしの身体」の「それ」,ときに尖端ともなる,つまりペニス。村山
は自身の裸体を欲望するであろう「男性」としての自身を仮想しながらフレームの中で踊る誘
惑者となっていた。他ならぬ「物」に触れているであろう「わたし」こそがそのとき「空想の
他者」となるのだ。
谷口英理は村山知義ら『マヴォ』の実践に「単に男性だけの運動体であるという以上に,構
造的にホモソーシャルな性格が見られる」27)と,従来のともすれば回顧的な(ということは男
性中心的な)この分野の研究において画期となる指摘を行っている。だが,さらに言えば,ハ
イヒールやヘアー,ヌードによる男性身体の女性への仮装が「自慰する身体」を現出させてい
たことを忘れるべきではない。<自慰>は自己の身体を他者のそれと想像し,他者の身体を自
己のそれとして「触れる / 触れられる」の交錯の中に,あくまで可能性に留まるとしても主体
のジェンダー・セクシュアリティの「特権性を剥奪し自らを」他者とする存在複数性の「世界
に開いていく」契機を秘めていた。五十殿利治は「身体とファッションからみた「マヴォ」周
辺の美術家と詩人」28)のなかでマヴォイストたちが尖端(アヴァンギャルド)に「見切りをつけ」
ることの象徴的行為を「おかっぱ頭から整髪へ,さらにザンギリ頭へ」と移り変わる,ヘアー
スタイルの変化に読み取っている。ハイヒールもヌードも,ある種の突然変異として続く広義
な意味でのモダニズムへとは引き継がれることはなかった。そして,オナニスム。プロレタリ
ア芸術にわずかに伏流しながらも 29),それはむしろ忘却されることによって,尖端(アヴァンギャ
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