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立命館大学大阪進出
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ヌード。「「マヴォ」の時代」を特集する『アール・ヴィヴァン』三十三号 22)は,全裸となっ
て自作の作品が並ぶ,あの「三角のアトリエ」の中で踊る村山知義のポートレートを初めて紹
介した(図 6)。実に巧妙なアングルによって被写体となったヘアーとヌードは見る者を女性の
それと一瞬錯視に陥れるに十分である。
〈共同討議〉「「主体」の破壊と「外部」としての身体―村山知義を軸に」23)において岡崎乾
二郎は村山のダンスを「統御をはずれ流出していく『外部としての身体』,『主体に収まらない
身体』」と意味づける。あるいは高橋宏幸も「詩と身体の交錯 村山知義とアヴァンギャルド時
代の空間」24)において村山のダンスに触れ「身体すらも他者化して眺めようとすること」の「可
能性」を述べる。が,二人の言をより具体的に言えば村山という男性「主体」の「統御をはず
れ流出していく」先には「女性」の,ハイヒールを履いた誘惑者としての「淫賣婦」,そして籌
子と同じヘアースタイルで,ときに全裸となった身体が待ち受けている。ただしそれが「外部」
ではなくあくまで村山自身の身体へと内的に還流し,想像的に実現されている点に留意すべき
だ。「身体すらも他者化して眺めようとすること」をここでは「自慰する身体の現われ」と呼ん
でみよう。
…彼の身体は,男としての現実の自分と,女としての空想の他者(マニキュアした手,鏡
の中の女装した自分)とに分かたれ,それらが抱擁しあう場であった。しかし,いつしか
それが逆転し,現実の自分が女となり,空想の他者が男となる。鏡の中の自分―女とし
ての空想の他者―が現実の自分となり,それを見つめる自分―男としての現実の自分
―が空想の他者となってしまうのである 25)。
金塚貞文が指摘した重要なポイントはオナニスムに鏡という仕掛けが不可欠である点だ。村
山の「自慰する身体」にとって鏡を代替していたのがまさにヘアーとヌードを撮影した写真と
いうメディアではなかったか。写真の中で全裸となった自分はいつしか自身を誘惑する仮想の
他者となり,あるいはそれが「踊り手」としての「觀念」,すなわち「淫賣に賣られたる少女」
への変態(メタモルフォーゼ)の実現化であるとするなら,まさに「ゾーニャ」の写真を眺め
るようにそれに触れている現実の自身こそがいつのまにか空想上の「男性」へと移行せざるを
得ない。「見つめる / 見つめられる」,「触れる / 触れられる」が激しく交錯する場(研究である
以上根拠のない憶測は厳に慎むべきではあるが,例えば不詳となっているこれら写真の撮影者
を「三角のアトリエ」のもう一人の住人,籌子であると想定するなら「見つめる / 見つめられる」
という<自慰>をめぐる交錯は一層複雑なものとなろう)こそ「自慰する身体」なのだ。そう
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