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立命館大学大阪進出

630龍谷人@また〜り:2016/02/14(日) 19:14:12
―みぢんになつた淫賣婦の骨粉 /―強いアルコールの幾滴 /―血の乾からびついた金
貨 /―もみくちやにされた性慾が微かに匂つてゐる /―殺人と嘘僞と接吻と
「十二人のはらめる淫賣婦」という「妊娠・分娩する娼婦のイメージ」は,谷口英理がその論究,
「アヴァンギャルドとセクシュアリティ マヴォ /『放浪記』」16)において述べるように「この
不毛な生殖
00000
とでも言うべき表象は,私的領域における生殖と結びついた正常0 0
な性と,そこから
排除された異常0 0
な性との境界を突き崩してしまう」ものだが,ここでは「十二人の男は倒れた
十二人の淫賣婦の臀部をナグリツケ」「男達はエリ首より左手を突き込んでタイ兒を引き出す」
という男たちの「淫賣婦」に対するグロテスクなまでの暴力,加虐,陵辱に注視したい。萩原
恭次郎の「カルタの札をかき廻してゐると」はまさに快楽殺人の現場である。「みぢんに」,つ
まりバラバラにされた「淫賣婦」の屍骸は,屍体愛好に供される吉行エイスケの「或る夜のオ
ナニ」とも重なってくる。「詩人=オナニスト」のテロルはなにより「淫賣婦」の身体を標的に
して実行されるのだ。
このようなダダイストたちのオナニスム,「淫賣婦買ひ」(そして殺しというテロル)といっ
たコンテクストにおいて,現在に到るまで大正期新興芸術に関する第一級の資料であり続ける
村山知義の『演劇的自叙伝 / 第 2 部』17)に記された,ドイツ留学時を回想する一見ごく些細な
エピソードも読み解く必要があろう。
「私はロシア人。ゾーニャというの。」/ ゾーニャ? 私は訊き返した。ドストエフスキーの
小説の彼女は,たいがいソーニャといったのに。(中略)彼女がロシア人で,ソーニャだっ
たということは,私をすっかり安心させた。彼女は親切に,あたたかく,私を導いてくれ,
私は私の初体験をつつがなく終えることができた。彼女がその時,自分の写真にサインし
てくれたのを,私は長いこと大切に持っていたが,戦災で焼けてしまった。(中略)その後
ベルリンとハンブルクとライプチッヒで一度ずつ,同じような体験をした。しかしそれら
は誠にきたならしく,暗く,みじめで,恥ずべきものであった。
凡庸なまでにありがちな,男性的性体験の告白なのだが,村山が長く懐かしむ「ゾーニャ」と
の交渉は「ドストエフスキーの小説の彼女」に投影した「シネマトグラフ」として想像的に回収
されたそれであり,そうである以上「淫賣婦」としての「ゾーニャ」の身体は実は村山自身の身
体の延長でしかなく,つまり「ゾーニャ」が「親切に,あたたかく,私を導いてくれ」た「私の」
<自慰>に過ぎない(次章で述べることとも関連するのだが「写真」の長期間の保持は<自慰>
の反復継続を思わせる)。だからこそ村山は「私は私の初体験をつつがなく終えることができた」
と回想できるのだ。「ベルリンとハンブルクとライプチッヒ」での「一度ずつ」の「同じような
体験」を「誠にきたならしく,暗く,みじめで,恥ずべきものであった」としか語り得ないのは,
むしろ生身の性的な他者に出遭ったことを意味しているのではないか。すなわち<自慰>たらざ
る性交の経験。




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