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立命館大学大阪進出
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自慰と尖端
─『マヴォ』とその周圏─
野本 聡
「私のオナニ」,迂回する表象
「私のオナニ」と名づけられた「構アサンブラージュ
成物」(の写真,図 1)が『マヴォ』第 4 号1)に掲載されて
いる。矢橋公麿の手に成るこの「構成物」は,だが何故「私のオナニ」なのだろうか。バネ(針
金?),ダンボール状の切れ端など,それこそガラクタを額縁に組み合わせた「構成物」と,そ
れを意味するはずの「私のオナニ」という名称の間に関連性を言い当てることは難しい。つまり,
シニフィエから浮遊したシニフィアンとしての「私のオナニ」という活字の連なりこそがここで
はむしろ反転した一つの詩的言語となり,展示されるべき図像となっていたのではなかったか。
『マヴォ』の中心的人物,村山知義はほぼ同時代
に『變態藝術史』2)を著しており,そのなかで「性
慾が藝術の始めに立つてゐるばかりでなく,その
すべての階段に立ち,最後にはその最高の頂きを
も輝してゐる」と述べ,性的ポテンツをこそ「藝術」
の根拠に位置づけるのだが,実はその「性慾」とは,
『マヴォ』誌上及び「マヴォの宣言」3)の言葉を借
りるなら当時の「尖端に立つであらう」とするア
ヴァンギャルドにおいては,しばしばもっぱらそ
れが抑圧されその実現,達成への迂回を余儀なく
された形態ともいえる<自慰>としてこそ表象さ
れている。いや,「表象されている」との言い方は
正確ではない。なぜなら,金塚貞文『オナニスム
の秩序』4)が述べるように「自慰する人の身体は,
性的な空想によって,彼ともう一人他の人という,
二人の身体に分割される」とすれば,「私」に局限された「オナニ」を実態として表象しようと
することは奇妙な袋小路に入り込むことが予期されてしまうからだ。<自慰>をめぐる表現実
践がそこからは自ずと迂回し,結局表象に失敗してしまう,あたかも不能といった事態に陥っ
ているのはそれゆえとでもいうべきか。例えばまさに「オナニズム」と題された戸田達雄の一
篇の詩が『マヴォ』第 2 号5)に残されている。
もしも充分だつたら / 多分 W・C・の中に / 灰色の幽靈がでるだらうよ。/ ちつぽけな ち
つぽけな ちつぽけな / ことにゆびの細さに於て比類のない幽靈。顔もちつちやい。/ そし
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