[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
| |
聖餐式/聖体拝領/聖体礼儀について
4
:
へっぽこ@説教と臨在
:2004/02/21(土) 22:25
2>>さらに下手をすると「説教者に絶対的な権威を持たせて、皆それに
>>したがえ」になってしまいやすいものですよね。でも、我々が現実に・本当に
>>変われるのは、あくまで復活のキリストを感じたときじゃありませんか?
そーなんです、フランシスさま。
牧師さんが、講壇で足をドンと踏み鳴らして興奮して語る...
聖公会の司祭さんは、「あんな説教、絶対まねできない..」と言ってました。
あれだけの聖書講義をされるフランシスさまが、それに止まらず、「神秘」を
強調されることが、モノスゴク説得力があるなあと感じているへっぽこです。
5
:
フランシス・ヒデ
:2004/02/22(日) 01:23
「へっぽこ」さま、
はい、本文のVolume 1の2ページ目の下にも記しましたように、
η βασιλεια του θεουはよく「神の国」と翻訳されています
が、たとえばアメリカを「神の国」と見なすような聖書ファンダメンタリスト
がブッシュ政権の背後に蠢いていたりしますし、日本でも別の意味で日本国を
「神の国」と呼んで物議を醸し出したトンデモ総理大臣がいましたよね。
だから、主キリストがおっしゃるη βασιλεια του θεουとは、
人間が作ったいずれの国家とも重なるものではないし、ソモソモ人間が作り出せ
るようなシロモノではないことを強調するために、私は「神の支配」と翻訳する
ことが多いのですね。
「(明言化された、人間にわかる)言葉」と「神秘」の問題との関連では、
赤ん坊が生まれてきたときに手を伸ばして何かをつかもうとする、あの
(どこで覚えたのか分からない、不思議な)習性を考えていただければ。
あるいは、もし「へっぽこ」さまにお子様がいらっしゃれば、そのお子様が
小さかった頃を思い出していただければ。小さなお子様がころんで「うえ〜ん
!」と泣き出したとき、「口からの言葉」だけで済ます親がいるでしょうか?
そんなとき、「言葉」は「冷たく、離れたもの」でありすぎますよね。むしろ、
大抵の親であれば、抱き寄せて「よし、よし」と身体をなでてあげるでしょ?
(私自身は、子育ての経験がないので、周囲の親と子供の様子を見て、言って
いるだけですが。く(^_^;;) )
つまり、身体感覚はどんな言葉にも先だつものですよね。復活の主も、「人間の
身体に受肉され、我々もいずれ受けるべき新たな身体に復活された」主です。
言葉による教え以上に、身体が福音の根底にあります。
これを忘れ、「聖書」という「言葉・記号の集合体」が根底だという錯覚を
起こすと、「言葉」に合わせて「身体」を鍛錬せよ、といったやり方になってし
まうことは言うを待ちませんね。結果、身体感覚のおかしな、「言葉」によって
「ああしろ、こうしろ、あれはするな」と言われなければ動けない、奇妙な
「キリスト教徒」が一部にできることになりました。(実際、一部の聖書ファン
ダメンタリストのあいだでは、同じ自動車を買うのに、どのディーラーがよいか
をわざわざ「聖書」に問い合わせて決める人たちさえいます!)
6
:
からし種
:2004/06/11(金) 08:58
メイン板から転記
名前: 投稿日:
どうも皆さん勘違いしている人が多いようですね。
私が言っているのはキリストがパンを食べろと言っているので他の教派の信者にパンを与えないのはおかしいといっているのです。
キリスト教で一番大事なのはキリストの救いを信じるかどうかです。
それがキリスト教の信仰だからです。
その次はやはりサクラメントかもしれません。
聖餐はどう理解するかはやはり様々な解釈があると思います。
私はその点は何もいう気はありません。これは神様にしか分からないからです。
しかし、パンを食べる事自体キリスト者である以上はやはり大事です。
当然ですキリストがそう言っているからです。
そして、キリストは教会に来たもの全員が食べろとは一言も言ってません。
これを差別というのはおろかな話です。
ノンクリスチャンにはパンを与えるのではなく、キリストの救いを述べ伝える事こそ大事なのです。
7
:
からし種
:2004/06/12(土) 11:47
""キリストがパンを食べろと言っているので他の教派の信者に
パンを与えないのはおかしい""
確かに拝領にベルリンの壁があるのはおかしいですね。(正直)
ただ、聖書の字義的には「わたしの体、私の血」「である」と
なっていると思います。(渡される夜)
だから、カトリックの通常のミサでは一般信徒が御聖体だけを
拝領して、御血を拝領できないのはおかしいと、正教等から言われ
ているようです。また、プロテスタント教会で、聖餐式を行なう時
は両方を信者が受けるところの方が多いと思います。聖公会の礼拝
に行った(2,3会)時は御体(ホスチア)だけでした。また、ルター
派の教会の礼拝には一度だけ行ったことがありましたが、その時は
聖餐式はありませんでした。
8
:
からし種
:2004/06/12(土) 17:07
でも、聖体拝領について、ホスチアと葡萄酒がキリストの御体、御血に変る
という「御聖体」ということを信仰内容として受け入れてなければ、キリスト
者ではないのか?、となれば、そうとは言えないと思えます。
9
:
からし種
:2004/06/12(土) 20:35
また、聖体拝領について、ホスチアと葡萄酒がキリストの御体、御血に変る
という「御聖体」ということを、信仰内容として受け入れることはキリスト
の福音と相容れない、聖書と大きく乖離するのでしょうか。
10
:
時作
:2004/06/14(月) 12:43
私の教会では、礼拝の中で聖餐式がある時と、ない時があります。
あるときは、当日礼拝前に、愛餐会の料理といっしょに市販されて
いる食パンをサイコロ状に切り、紙パックの葡萄ジュースを器に分け
ます。
聖餐式の時は、係りの者が順番に会衆の方へ皿に載せた食パンのサイコロ
状のものを持って回り、信者が順次手に取っていきます。葡萄ジュースの
方も同様にして、小さい盃に入ったものが配られます。
ところで、聖体拝領というのはどういうものですか?
11
:
慈延
:2004/06/14(月) 12:54
まず、ミサの中で聖体拝領が行われるという表現は滅多に見ません。
ご聖体を頂くことをミサと言うのですから。
祭壇の聖なるいけにえは、イエス・キリストのご受難、ご死去の単
なる追憶ではなく、最高の司祭が血を流さずにご自分をほふって、
かつて十字架上でされたことを『新たに』くり返される真のいけにえ
である。かつて、ゴルゴダの丘で、十字架上において苦しまれた主イエス
キリストを、ヨハネやマリアが見ていたように、ミサにあずかる我々も、
聖変化の効力によって、同じキリストのおん体とおん血の実在を有する
のです。
難しいことはさておき、司祭が「キリストのおんからだ」と言いながら、
小さいウェハースのようなものを差し出し、それを我々が「アーメン」
と信仰告白して手で、または口で受け取ります。
12
:
時作
:2004/06/14(月) 17:43
「司祭が「キリストのおんからだ」と言いながら、小さいウェハースのようなもの
を差し出し、それを我々が「アーメン」と・・・」
つまり、キリストの体だけど受け取るか?はい、そうです頂きます、という受け答え
をしているのですね。
だから、「アーメン」と言えない者は受け取れないということですか?
実際深刻に考えずさらっと受けて口にしてるんじゃないですか?
13
:
へっぽこ
:2011/02/15(火) 01:58:01
メインスレにはありえない対話ですわね。
14
:
名無しの伝道さん
:2018/02/24(土) 11:26:04
作詞:聖イエス会教祖様
1
時の流れははやく 終末は迫り
しののめが近いと みな告げしめす
神の期待に われらは こたえん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
2
十字架の旗のもと 決意も新たに
いのちにはいのちを 愛には愛を
心燃えたち われらは こたえん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
3
新しいエルサレム ゴールをめざして
ハシッドの召命 神化の道を
ただひとすじに われらは こたえん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
4
神のビジョンを見つめ 聖霊に燃えて
新しい歴史と 輝く未来
メシヤの世紀 われらは 開かん。
メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板