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在日朝鮮人のための北朝鮮講座(70)

1解法者:2004/06/11(金) 15:04
>映画「実尾島(シルミド)」に想う(5)<

 韓国政府にとって、「実尾島」での「訓練兵」は<厄介者>に過ぎなくなっていた。
 後見人とも言うべき「金 炯旭」中央情報部長は更迭され、後任の「李 厚恪」も全く関心がなかった。悪いことに、訓練・管理を担当していた空軍にとっても指揮命令権はない、予算も付けられない。空軍にとっても<お荷物>となっていた。
 「訓練兵」の士気は落ち、1970年10月、隣接する「舞衣島」の国民学校(小学校)に3名の「訓練兵」が乱入する事件が発生し、これを鎮圧する「訓練兵」が突入する前に自決して果てるという事件が発生した。こうして「訓練兵」は24名となった。
 「金日成主席宮爆破命令」は下りない、さりとて「実尾島」から抜け出せない。「訓練兵」は爆発寸前となっていた。しかし、誰も手を打てないでいた。
 そうしたなか、1971年8月22日(日)、「訓練兵」24名が決起した。ソウルに行って状況を上層部に訴えようというのである。
 「訓練兵」には指導教官として「基幹要員」が1名付けられていたが、「訓練兵」はその
指導教官の「基幹要員」を殺害して島を脱出するという計画であった。
 まず、教育隊長「金 正哲(キム ジョンチョル)」が殺害され、順次「基幹要員」が殺害された。殺害された「基幹要員」は隊長も含めて18名、たまたま厠にいて便つぼに隠れて助かった者、海岸に逃げて岩陰に隠れた者、撃たれたが幸いにして助かった者、など6名が生き残った。なかにはたまたま主張中で襲撃に会わなかった幸運な「基幹要員」もいた。
 「訓練兵」も2名が亡くなった。一人は「訓練兵」によって殺害されたといわれている。
「訓練兵」のなかにも対立があったのである。
 残りの22名は、ゴムボートで「舞衣島」に向かい、そこで「漁船」を挑発して、対岸の「仁川(インチョン)」に上陸し、バスを乗取って、ソウルに向かった。


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