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【盲信】学会が信じるおかしな事【思考停止】

302enari:2005/06/10(金) 12:59:18
 法華経を愛する宮沢賢治の詩に「宗教風の恋」という詩がありました

 なぜこんなにすきとほつてきれいな気層のなかから
 燃えて暗いなやましいものをつかまへるか
信仰でしか得られないものを
 なぜ人間の中でしつかり捕へようとするか
  (中略)
 もうそんな宗教風の恋をしてはいけない
 そこはちやうど両方の空間が二重になつてゐるとこで
 おれたちのやうな初心のものに居られる場処では決してない 

 賢治は多くの宗教の偽善に気がついた。既成仏教も、新興宗教も、真理、真如、本当の自己、仏を信仰するのでなく、教祖、開祖、教団幹部などの人間、たとえば田中智学師を信仰させている。信仰をそんな人間の中にとらえるのではだめだ、というのだ。そのような宗教は初心者、誠実に自己探求、神仏を求める者にとっては、わかりにくく、人間信仰の誤った方向へ導かれてしまう、というのだ。「なぜこんなにすきとほつてきれいな気層のなかから」とは、すでにみな自分で清浄な本来の自分があるのに、なぜ、「燃えて暗いなやましいもの」を、そして、自分以外の特定の人間の中に、求めようとするのか。そのような「教祖」を恋したうような宗教風の恋をしてはならない。人間への恋、信仰、教祖への「恋」は、賢治のようなうぶな初心者の住むところではない。
 熱狂的な信仰は、その過程で常軌を逸脱して、家族や知人に迷惑をかけた行動を伴っていた場合、醒めて後は、人生を誤ったと後悔が大きく、その指導者を憎悪することがある。最近の悪徳宗教の元信者の場合にも見られるが、賢治の詩にも、それを見る。
 宗教教団は初心のものにいられるところではない。初心のものとは、いつか金や権力をめざす手先になってしまわないで、最後まで、初心の誠実な願いを持ち続ける賢治のような純粋の宗教を慕う人であろう。宗教は神や本当の自分を求める厳しいものなのに、語りあえる仲間、人間を求めてしまう。だから、宗教団体に長く属していながら本当の法華経精神や、仏教とは何か、人間とは何か、神とは何か、ということについて自己のはっきりとした信念を持っていないで「信者」だという人が多いであろう。宗教を道具にした人間仲間を求め合う恋に等しい団体などは、本当のものを求める人のいる場所ではない。
 こうしてこの詩も、国柱会からの離別をうたっている。金や政治や権力や教団内での名誉など関係のない純粋な宗教を求める人々とは異なる道を歩む宗教への批判であろう。創価学会にも同じことが言えると思います。


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