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仏法あれこれ。。。お勉強スレッド
49
:
両
:2004/02/06(金) 17:52
>非活動1年生様
多くの時間を生活そのものに費やしているので、やはり実感するのは、世間を知るということや、自分を客観視できるという意味で「相互通行」と言いました。生活実感から仏法の理解が深まるし、仏法から生活上の悩みに曙光を見出してきた経験から、一体のものだと思っています。
崇高な思想の高見から世間に落としていく宗教家の道徳観のような捉え方は、実は「信」がなくて「知」の切り売りのような気がします。
また、学会の組織の活動方針にしたがうだけの労働は趣味に近く、人生を掛けた戦いなどという、こじつけた「信」の人もいますが、本来の生活と離れたところにある活動で、自らの課題に集中できるものでしょうか。
また別に、「指導」と称される「教育」も組織内でありますが、よく考えると指導する側(組織側)に都合のいいものしか出てきたためしがない(笑)。そもそも「教育」とは、親や組織や国家に都合のいい人間を作る(矯正する)ことが主眼で、概してMC的なものでしょう。だから「指導」も、純粋に「信」の自立のためとは言い難い。
自分も組織に属しているから感じるのですが、活動者の多くが「信」と勘違いしているのは、池田氏と学会への忠誠でしょう。確信といえるものはなく、服従することで安心を得ているだけではないでしょうか。だから、個人では御書すら読まない人が多い。また実利的な信仰だから、たとえ読んでいても教条的に受け入れる傾向が強く、熟慮が欠落していることも多い。やはり、自らの成長より、即席に利益を求めることが本音にあるから、呪術的な拝読や、指導のような具体的指示の方が都合がよく、好んでしまうのだろうと見ています。
何でも自分で判断することは大変な労力が要るし、不安感にも襲われるものでしょう。他人任せより苦労も多く、ほとほと疲れるのものですが、成長の実感があり、新しい発見がある。そのための「学」と「信」だと思っています。
また、アインシュタインが、これまで誰も絶対軸として疑わなかった「距離」や「時間」を変化するものであると疑えたのも、信を意識しているから「信じない」ことを意識できて、その既成概念を疑う思考の柔軟さが発見に至ったのだと連想しました。
できれば、自分も読んでみたい。その「三浦綾子」さんの書名を教えていただきたいのですが。。。
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