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☆ひとり言☆

502反創価学会連盟(A・S・C):2004/09/23(木) 01:33
折伏のあり方(ホンマの独り言というか引用)
こういう引用文を読まれて、折伏(勧誘?)されている方は考えを改めてみては
如何でしょうか?

薬王よ、汝は当に知るべし かくの如き諸の人等にして
法華経を聞かざれば 仏の智を去ること甚だ遠きなり。
若しこの深経は 声聞の法を決了するをもって
これ諸経の王なりと聞き 聞き已りて諦かに思惟せば
当に知るべし、此の人等は 仏の智慧に近づけるなり。
若し人、この経を説かんには 応に如来の室に入り
如来の衣を著 しかも如来の座に坐して
衆に処して畏るる所なく 広くために分別して説くべし。
大慈悲を室となし 柔和忍辱を衣とし
諸法の空を座となし これに処して、ために法を説け。
若しこの経を説かん時 人ありて悪口をもって罵り
刀・杖・瓦・石を加うとも 仏を念ずるが故に応に忍ぶべし。
(「法師品」、岩波版『法華経』(中)、p. 162)

やはり誤解をとく必要のあるものが、いわゆる折伏の問題である。折伏とは
攻撃的な布教方法のことで、寛容的な布教方法である摂受に対する。
末法の世においては、この折伏を中心とすべきことが説かれるが、それを特
に強調したのが日蓮である。しかし、折伏について、また折伏を強調した日蓮
について誤解が生じた。そこで日蓮は誤解をとくために、いろいろと弁明に
努めた。たとえば、「これ、おごれるにあらず。正法を惜む心の強盛なるべし」
(『乙御前御消息』五十四歳)とて、「おごれる心」や「自賛」からなされたも
のではなく、「正法を惜む心」からなされたものであると弁明している。
 いいかえれば、折伏は正義の曇りにたいする、いわば公憤であって、個人の人
身攻撃や私的な憎しみ、うらみではないということである。この点について思い
おこすことは、門下が裁判所に訴えられたときに、日蓮が与えた注意である。
『問注得意鈔』(真蹟 四十八歳)がそれで、その中に、
「設ひ敵人等、悪口を吐くと雖も、各々当身の事、一二度までは聞かざるが如く
すべし。三度に及ぶの時は、顔貌を変ぜず麁言を出さず、軟語を以て申すべし。
各々は一処の同輩也。私に於ては全く違恨なきの由、之を申さるべきか。」
という、こまごました注意が説かれている。また公場対決にさいしても
「公場にして理運の法門申し候へばとて、雑言・強言・自賛気なる体、
人に見すべからず。浅ましき事なるべし。弥身口意を調へ、謹んで主人に
向ふべし」(『教行証御書』五十七歳)と注意した。公場で道理のかなった
法門を説くからといって、悪口や粗暴なことばをはいたり、自慢そうな態度
をするのはあさましいことで、いっそう身・口・意をととのえ、つつしんで
相手に対せよと戒めたものである。なお、折伏は自宗の勢力獲得の運動では
ないのであって、宗派争いはやめるべきだとたしなめている。すなわち、
「道心あらん人、偏党をすて、自他宗をあらそはず、人をあなづる事なかれ」
(『開目鈔』曾真 五十一歳)という。以上の注意は、門下の中高慢な態度
をとる者が出たためになされたもので、日蓮のこまやかな心くばりがしのばれよう。
(田村芳郎著『日蓮―殉教の如来使―』P,100〜P,102 NHKブックス)


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