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☆ひとり言☆
217
:
摩訶提婆
:2004/03/18(木) 07:25
余り、頻繁にネットに入って来れないので、掲示板で論争等という事は殆ど出来無い状態です。
途中で話を切ってしまっているようで、大変申し訳有りません。
何処に書いても、独り言以上のものには出来無い状態ですので、独り言として書いておきましょう。「摩訶提婆's 日記」番外編。
「真宗」関連の事を書いておきましょう。
私の父の実家が、真宗大谷派ですので、多少は知っておかなけばならないのでしょうが、学会人なので、実際は、余り知りません。
親鸞上人は、日本仏教界のビッグネームでもあるし、真宗の家の方でなくても、ファンだと言う方は多いようです。
親鸞上人に関しては、教団とか、信仰とか、そんなものは、吹っ飛んでしまいそうな、本来、仏教と言うのはそんなものなのでしょうが、危うさというか、怪しさ、のようなものが有ります。
まともな宗学では、そんな事は問題にしないでしょう。「歎異抄」なども、厄介モノあつかいと聞いてます。
以前、「歎異抄」をもっていたのですが、何度かの引越しで、どこかになくしてしまいました。
手許にある、本から少し抜粋して、私なりの、読み方で、書いてみましょう!
「無上仏ともうすは、かたちもなくまします。かたちのましまさぬゆえに自然とはもうすなり。かたちましますときには、無上涅槃とはもうさず。かたちもましまさぬようをしらせむとて、はじめて弥陀仏ぞとききならいて候。みだ仏は自然のようをしらせむれうなり」
晩年の言葉の様ですが、「自然」は今日的な表現では「宇宙」として良いかも知れません。鎌倉時代の人間に、今日的な宇宙の感覚を求めるのは無謀かもしれませんが、私は、そのように読みます。
「れうなり」の「れう」は「科」の字が当てられており、「方便」というほどの意味の様ですが、弥陀如来が「方便」では、称名念仏の必要も疑われます。おそらく、宗学では重要視しない言葉でしょう。
「無上」なるものは「かたち」の無いものとしたようですが、空間ばかりか、時間の制約すら受けない存在・・・時空間の制約を受けないものを存在とはいえないので、その様な次元を超えた仏の発見があったものと考える事も可能でしょう。
「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫とときたれど、塵点久遠よりも、ひさしき仏とみえたまう。久遠実成阿弥陀仏、五濁の凡愚をあわれみて、釈迦牟尼仏としめしてぞ、迦耶城には応現する。教主世尊にもうさしむ、往昔久遠劫に、仏世にいでたまえりき、無量光ともうしけり」
これも、晩年の言葉の様です。
正宗教学でおなじみの言葉も散見されますので、漢字は多くても、解りやすいとは思いますが、内容は、ビックリでしょう。
「久遠実成阿弥陀仏」・・・学会人の立場から見れば、噴飯モノ!もう、これは「法盗人」でしかないでしょう。釈尊に付されるべき「久遠実成」の称号(?)が、なんと、たかが「十劫」の弥陀仏に付されています。
久遠という時間の究極に、弥陀仏を発見したものと考えますが、どんなものでしょうか?
久遠を語れば、もう、弥陀だの、釈迦だのの差別などは、どうでもよいことになってしまうのでしょう。
彼此の二元的対立を超えた一元的な世界観に還って行ったようです。
一方、日蓮は?というと、「二の隔たり無し」などと豪語していた筈が(「一生成仏抄」)、晩年(佐渡流罪期には既に有ったと思いますが)には「霊山浄土」を説く有様。なんですか?こりゃ?
結局、安易な、彼此/浄穢の二元的な、来世信仰に逃げ込んでしまっているようです。いやはや!耄碌というやつですか?
日蓮にも、宗派を超えてファンが居るようですが、せいぜい、佐渡流罪期までに限られるのでしょう!
勝手な事を書いていますが、独り言なので・・・。
ではでは。
恐恐謹言。
摩訶提婆
暫らく、ネットに入れなくなりそうです。3月20以降は完全に駄目!その後も、どうやってネットに繋がるか、まったく不明の状態です。必ず!戻ってきます!この掲示板の大発展を期待しています!!!
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