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「霊の戦い」の健全な信仰的理解とは
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:
仁保裕介
:2006/02/11(土) 22:06:59 ID:rYdrWbR6
そして、ご質問の二元論のことですが、ご指摘のとおり、人は罪のゆえに滅びることが決定していた、というのが原罪の神学です。
それに対して、主の十字架クリスチャンセンターでは、人が悪魔の霊的影響下に居るので自分達に反対するし、その反対者達は悲惨な結末を迎えると教えています。これを、携挙の条件や永遠の滅びに結びつけているのが問題です。
つまり、主の十字架CCの献身者としての神の召しと、それ以外の悪霊下にある人生、という二元論になります。その他のクリスチャンは、反対者で無い限り判断を保留するという扱いです。
伝道について、アルミニウス主義を借用して「今奉仕者でも従わないと落ちるし、クリスチャンでなくなることもある」と言い、人の滅びと伝道の召しに「運命」という言葉をかぶせて、「死ぬ運命のこの世の人たちに、キリストのように殉教者のように自分に死んで命がけで伝道の使命をまっとうすべき」とまた行き過ぎた説得をしています。(私達に必要なのはキリストにある命であって、死をイメージするものではないはずです。)実際、アルミニウス主義と同時に、「運命」の言葉を使いカルビン主義を連想させるにも成功していますが、これは上位者にとってはただ脅すため、奉仕者にとっては使命をより重く受け止めるためだけのもので、神学的論理的不整合は全く意識されていません。
伝道に人を駆り立てられれば、何をしても、何を言ってもOKなのです。
その辺は、主の十字架CC以外にもあることですね。危機感と使命感を煽るのは、豊かな時代のカルトの有様でもあります。
一般の教会でも惨事を悪魔に結び付けて、裁きとして教えるところがあるのも大いに問題です。そのせいで、私が書いた主の十字架CCの教義がおかしくないと思ってしまう方もいるかもしれません。
----以下は私の個人的信仰の告白です。議論を求めるものではありません。
神による罪の裁きとして惨事が起こるとの解釈を、私も支持しません。また、「罪の結果」だと断ずる立場に私はいないと思いますし、新約時代にはそれは無いと信じています。
ただ、地上では人の営みや人の限界があるために問題も起こる、と普通の理解をしています。その中で人は良いものや真実や信仰を求めるべきなのではないでしょうか。弱く、小さな存在として。
すべてのことを合理的に理解したり解釈しきれるとするのは、人としておごりがあると個人的に思っています。しかし、神・キリスト・聖霊の存在を疑うわけではありません。合理的に説明するより、他人の痛みを共有しつつ共に個人として答えを求めることが大事だと思っています。そして、その答えへの理解も成長と共に深化して変わるものでしょう。神学や聖書や信仰告白は、絶対・普遍の宣言と思われがちですが、聞いた人の信仰の真の告白になるまでは、ただの字面でしかありませんし、一生かけたとしても全てを悟り理解することはありません。このへりくだった心の姿勢は人として大切です。
この探求する人生が、神の赦し(十字架による完全な赦しと、同時にある人の拭えない罪への神の寛容)の中で求められるものではないか、と思っています。
キリスト以降の世には、神の赦しが存在しています。人はそれを見つけるように招かれています。クリスチャンでも、そうでなくても、決して完成しない探求する人生が運命づけられていることに変わりはありません。
ですから、私達にとって人生は決定的ではなく、この世も二元的世界ではありえません。
アルミニウスの説でもカルビンの説でも、完全な説明などはできないでしょう。尊重すべき神学的信仰的内容はあっても。
-----以上です。
つづく
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