したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

TLCCC長老たちの信仰の態

12にほ:2006/04/13(木) 19:57:52 ID:rYdrWbR6
秋元俊人氏の説教要旨から
http://web.astone.co.jp/tlccc_hp/onsei/200603w2/20060326.html

引用>> 神のみこころを行おうと願うなら、神からのものかどうか見分けられるとあります。しかし私達には、神のみこころを行い、従う力はありません。みこころを行う時には、神の助けがあるのです。聖書には、私達は律法を行うことはできないとあります。<<

神のみこころとは、端的に言って律法ではなく「神と人を愛すること」でしょう。
神の本質は愛であり、神の創造による人の性質には愛があります。
また、さらに私達は初代教会以降、聖霊によって愛することができます。

つぎの「私達には力がなく、聖書にも律法は行えないと書いてある」とは酷い説教の展開です。「私達はダメだから、神によってできるように祈ろう」との意図のようです。
この言い回しは秋元氏をはじめ、主の十字架クリスチャンセンター牧師達が好んで頻繁に使うものです。
これで聴衆に植え付けられるのは、「私達はダメ。神に聞こう。しかし、神のみこころを知っているは牧師だから、牧師に従おう」という発想です。



引用>> けれども、他の人を通して神様のわざが起こると、おもしろくないと思うことはありませんか。それは、ねたみです。しかしそれは当たり前のことです。なぜなら私達は罪人だからです。私達は義人からスタートではなく、罪人からスタートするのです。<<

とても、信仰的とは言えないことばです。
義人は信仰によって生きるはずです。
だれにでもある感情を根拠に、「罪人だ。ダメだ。」と聴衆の人格を否定しています。

信仰と救いの喜びは、だれにでもあるこのような罪的状況を神がキリストの十字架の犠牲のゆえに受け入れ、赦していることにあります。これに触れないことに大きな問題があります。

A氏は、「それは当たり前のことです。」と言って聴衆を慰め、同時に「自分は罪人」だと聴衆の意識を固定化しています。
長崎教会の木原真氏は、確かにここでキリストを持ち出しますが、結果は同じです。
要するに強調点は、「神に従えない罪人の自分」というセルフイメージを聴衆に与えることです。「みんな弱い人間なのだ」と謙遜にさせる良いメッセージでは決してありません。その証拠に、聴衆は、長老・牧師は神の声を聞く権威だと、ヒーロー視させられ、「神の権威である牧師への服従は神の掟」だと、この説教の外で言っているのです。


信仰と救いの喜びを与える意図はなく、「リバイバルのための産みの苦しみ」と称する人格否定ばかりが彼らの説教の特徴です。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板