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:
にほ
:2004/05/25(火) 15:56 ID:rYdrWbR6
私の文章の視点と目的
私の文章が堅苦しい、読みにくいという指摘を受けました。理論武装では無く、本音を書いて欲しいとのことでした。(1、2ヶ月前のひつじの掲示板にあった投稿でした。)
私は、自分と脱会者と外部の人が、共にTLCCCの中身を整理して理解することができるようにと考えて書きました。実際自分の内から出てくる感情をコントロールしながら言葉をどう伝えるかかなり苦しみました。実際一つの原稿に10時間以上はかけています。いろんな意味で、かなりしんどいです。でも、どうにかして全貌を、できるだけ客観的に明らかにしたいのです。
私は、ひとりひとりの現場と組織の両方を、反省しつつ正しく捉え、キリスト教の名のつく場所で2度と起きないように記録を残すべきだと思っています。
私は、主の十字架CC問題の全体像を、以下の5つの視点で明らかにするべきだと思っています。
「社会的な視点」
「神学的な視点」
「心理的な視点〜教会形成・信仰確立のために行ったのに、なぜあのようになったのか」
「脱会後個人の解放の処方箋」
「今後のキリスト教カルト被害予防のため」
この半年('03.11〜'04.05)の経過として、私は、法的、社会的問題を洗い出し、指摘することを急いできました。
以上がこれまでの私の文章の視点と目的です。
私自身のこと
私は’92〜’99に主の十字架CCに居て奉仕しました。私自身の奉仕は自分の真実を込めた精一杯の奉仕でした。しかし、その中で自分が説教した内容が、妥当ではないものを含んでいたことを認めます。弱さを認めて神に近づくことよりも、奇跡を起こすほどの強い信仰を持つことを勧めました。主の十字架CCの言う「聞き従い」とはそのようなことでした。
私は、3歳から27歳まで長老派の教会に通い、クリスチャンホームの中で人生の価値観を植え付けられました。そして、自分の答えとして主の十字架CCの神観・信仰観を信じ、実践しました。’91年当時、教会が信徒に対して「聞き従いとは、神との個人的関係を持ち、聞き、個人として神に人生をゆだねて従って行く」と強く主張することはなく、主の十字架CCは表立ってそれを言い目立っていました。しかし、「聞き従い」は神の伴いを確信するクリスチャンには当然あることで、公の集会でそれを言うまでもなかった事だったのかも知れません。そして、当時の私は愚かにも、主の十字架CCは、当然福音的教理の全てを受け入れた上で、主張していると思い込みました。それが失敗でした。主の十字架CCが、人間的過ぎる傾向があると思っていた従来の教会の姿とは違う、神を見上げる純粋な信仰と映りました。しかしそれが独善と排他性につながっていたのです。
本当の信仰は、自分の本当の姿を認め、神の所に行くことです。当時、私は人生に困難を感じ、そのような信仰を持っていました。しかし、その神が共に居るという現実的確信に飢え乾いていました。また、自分ひとりでそれを確信することに困難を感じていました。当時の私が受けていた信仰のことばには、キリストの伴いを現実的に確信させるものはありませんでした。伝道の義務や律法が信仰を阻んでいたと言えるかもしれません。それで、もう一つの原因は、一向に福音化されない地域伝道への焦りと、クリスチャンとしての社会的立場・アイデンティティの確立があったと言えると思います。その点で主の十字架CCは答えを持っているように見えました。
そして、私の主の十字架CCでの奉仕でも、「徹底的な弱さの発見が、神との出会いや、神に注がれる力への信頼になる」との信仰に立っていました。しかし、長老組織ができた辺りから、表立って変質し始めたと思います。主の十字架CC奉仕者の弱さは、「弱い者が強くなる」という真理を、本当の信仰によらず、教会組織、長老組織の中での法則性や方法論として、説教してしまったところにあります。そして、強く立ち上がって来ない人への不寛容が蔓延しはじめました。私が脱退したのはそのような時でした。
私の今の立場は、神は寛容に弱い私たち人間を受け入れ、助けを求める人には、その人の状況に応じた方法で道を開く方だと思っています。そして、その中で「聞き従い」は有効だと思っています。弱い者たちが互いに受け入れ合いながら、愛を育むことが大事です。教会・交わりの意義はそこにあると思っています。教会の権威とは、牧師の権威のことではなく、”隣人に仕えるという愛の実践の中で実を結ぶ交わり”が教会の権威なのだということを、もう一度確認して前に進みたいと思っています。私が、主の十字架CCに参加する前に受け取った、献身の召しのことばは、「わたしの羊を飼いなさい」ヨハネ21:15〜17、「迷った一匹を捜しに出ないでしょうか」マタイ18:12です。これを握って、もう一度働きにチャレンジしたいと思います。
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