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救い≠キリスト教業界人化

3仁保裕介:2005/02/25(金) 23:38:09 ID:rYdrWbR6
レスありがとうございます。

まず、前提を書きます。
業界人化と言われても、全くピンとこない教会の方々もいるはずです。人間性、社会性を、犠牲にすることが少ない健全な教会もあるはずなので。
(問題の大きい教会に限らず、組織というものには、必ず個性の制約や疎外が伴います。個性とは、目に見えるその人個人の社会生活の在り方や、人生のビジョンが含まれます。それが、組織に属することよって、制限されたり、疎外されたりすることは、普通の社会常識です。教会組織は、そのような組織の普通の在り方を、特に避ける意識が必要です。もちろん、社会全般でもその志向があるべきなのですが。現実は簡単ではありません。)

聖書が求める「キリストのからだ」と呼ばれる教会は、愛で結ばれ、聖霊に導かれることが前提です。同時に、人間に自己中心性・利己性(愛の逆の性質=キリスト教で言う「罪」)があることも事実として認めねばなりません。どんな教会教職者でもその罪の問題は免れられません。

聖書は、教会形成のための分かりやすいマニュアルとは言えません。
キリスト教の聖書への理解は、以下の内容が中心だと思います。
人が、上に書いたような「人としての罪」を認めること。
その上で、神の下へ行き、キリストの犠牲による赦しと聖霊の伴いを得ること。
人が罪に従う性質から、神と人を愛する性質へ志向することを、指導すること。

教会とは、その「愛への志向」を前提とした、交流と励ましと教えがあるところ、ではないでしょうか。(そこに聖霊の働きがあることは、言うまでもありません。)


私は、「愛」の解釈、「罪」の解釈、「聖霊」の解釈、「人の交流・励まし」の解釈、「教え・教職」の解釈、が人や集団によって拡大解釈されたり、曲解されることが、問題だと思っています。また、聖書では触れられていない、個性の領域まで踏み込もうともします。
本来、信仰生活と聖霊によって、個々人が、罪の束縛や痛みから解放され、愛を持ち自立し、様々な社会的責任を全うするだけの人格回復を受け取れるはずです。しかし、誰かが外れた解釈を思い込み確信して、人に説得してしまい、それが拡がるという現実があるのではないでしょうか。そしてその外れた解釈も、人のどうしようもない弱さや、悲しい体験による、かもしれないのです。

人は、社会的な生き物です。周りの人にはどうしても影響されてしまうものです。その中で、愛を基準に真実なものを求める姿勢を貫くのは、容易なことではありません。教会という社会の中でもまた、「何が良いもので神に受け入れられ、完全であるか」を、見分けなければならないのでしょう。悲しい現実を憂い、痛みながら。

以下、また後日に、、つづきます。


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