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時事問題深読みスレPart2

39凡人:2018/07/30(月) 23:56:16 ID:UebH2vgA0
富岡製糸場の建設に深く関わった渋沢栄一は当時の富岡製糸場をどう見ていたか?「富岡製糸場は国による採算を無視した経営であり、それゆえ上手くいった面もあるが、実際に製糸の近代化に貢献したのは民間の人々である」と語っている。

『イギリスの商工会議所の会員から、「日本の商人はインチキばかりして、まともな取引ができない」とクレームを受けました』。

西洋と東洋。西洋が世界の悪の根源とする見方は高経大の教授たちがよろこんで使う論法だが、上の文章がそれが的外れということの例として使えるのではないか?偏向した思想を持つのは個人の自由だが、大学からみたらレベルがとんでもなく低いと言いたい。真理追及が大学の研究の存在価値だろう。それができなのでは大学として大きく失格していると言わざるを得ない。
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今、正しく稼ぐ人は「渋沢栄一」が先生
2018/07/25 09:15プレジデントオンライン

幕末から明治にかけて、日本には莫大な財を成した4人のイノベーターがいた。彼らはどこが違っていたのか。雑誌「プレジデント」(2018年2月12日号)の特集「仕事に役立つ日本史入門」より掲載記事を全4回で紹介しよう。第1回は「渋沢栄一の会社の作り方」について――。
■東京ガス、キリンビール、東証、王子製紙の設立に関わった
渋沢栄一がいなくては、今の日本は全く違う姿をしていたでしょう。渋沢は、第一国立銀行、東京ガス、王子製紙、東京海上火災保険、帝国ホテル、秩父鉄道、キリンビールなど、日本経済をリードする多数の企業や東京証券取引所の設立に関わった人物です。日本における実業の基礎をつくった最大の功労者は、渋沢といえるでしょう。
1853年、ペリー来航で始まった幕末。幕府はアメリカ合衆国との不平等条約(日米和親条約)に調印。全国から討幕運動が沸き起こりました。
1840年に豪農の長男として生まれた渋沢もまた、若かりし頃は討幕の志士の1人でした。従兄の尾高淳忠に古典を学び、北辰一刀流で剣術を学んだ渋沢は20代前半、高崎藩の城を襲撃して武器を奪い、横浜で外国人を切り倒す攘夷の計画を立てます。そんな生粋の志士がなぜ、「日本資本主義の父」と呼ばれる偉人になったのでしょう。
それには3つの要因がありました。1つは「様々な人の意見を聞き入れ、考えを改める柔軟性があった」こと。高崎城の襲撃の際も、京都での見聞から反対意見を持った従兄の言葉を聞き入れ、中止にしています。また、もともと実家が農業の傍ら商売をしていたことに加え、渋沢自身も武士、官僚、実業家と様々な職業に就きました。そのおかげで多様な立場を理解する器量が身についていきました。広く情報を集め、その中から一番いい選択をすることで、何度も困難を乗り越えています。
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▼渋沢栄一
1840年:現在の埼玉県に生まれる。実家は豪農
1858年(19歳):従妹ちよと結婚
1864年(25歳):一橋慶喜に仕える
1867年(28歳):徳川昭武に従ってフランスへ
1869年(30歳):明治政府に仕え、民部省租税正となる
1873年(34歳):第一国立銀行開業・総監役
1885年(46歳):日本郵船会社創立
1900年(61歳):日本興業銀行設立委員
1901年(62歳):日本女子大学校開校(後に校長)
1906年(67歳):東京電力会社創立・取締役
1931年(92歳):永眠
※歳は数え
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