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時事問題深読みスレPart2
37
:
凡人
:2018/07/30(月) 23:44:22 ID:UebH2vgA0
創業3年目には早くもポール・ブリュナを解雇(高額な給与が問題視されていた。再契約はなく明治9年に帰国)。日本人の手で生糸の製造が開始されるが、思うように生産量が伸びず赤字が解消されないまま明治26年には民間に払い下げられている。
民営移行後間もない明治31年、早くも工女のストライキが起きた。採算度外視の実験的工場からシビアに利潤を追求する工場に変えようとすれば労働条件が悪くなるのは当然だ。
富岡製糸場の建設に深く関わり、富岡の仕掛人ともいえる渋沢栄一も、富岡製糸場は国による採算を無視した経営であり、それゆえ上手くいった面もあるが、実際に製糸の近代化に貢献したのは民間の人々であると語っている。
しかし富岡製糸場の売店で売られていた資料には、民営後の経営や労働環境の変化について何も触れられておらず、子供向け書籍「世界へはばたけ・富岡製糸場(上毛新聞社発行)」でも、富岡市発行の有料パンフレットでも、富岡製糸場を愛する会発行の有料パンフレットでも、ごく初期の学校みたいな官営工場時代だけが富岡製糸場であるかのごとき記述となっている。
富岡製糸場の先進性を強調する人々が資料として必ずとりあげるのが、創業当初工女として働いた和田(旧姓横田)英(えい)の「富岡日記」である。これは当時の富岡製糸場の状況を知る資料として重要であり、日本の近代化に貢献した日本人の一人として、その功績は高く評価すべきものであるが、彼女が富岡製糸場で受けた待遇が、その後の製糸従事者にそのまま受け継がれたわけではない。
和田英は郷里の松代区長であった横田一馬の長女で、区長は富岡製糸場工女募集の地域責任者でもあったから、立場上率先して娘を参加させる必要があったのだが、かねてから親戚の娘が東京にメリヤスの勉強に行ったことを羨ましく思っていた英は、富岡行きを非常に喜んだ。
英は松代を立つとき父親にこう訓示されたという
「さてこの度、国のためにその方を富岡御製糸場へ遣わすについては、よく身を慎み、国の名、家の名を落さぬように心を用うるよう、入場後は諸事心を尽して習い、他日この地に製糸場出来の節、差支えこれ無きよう覚え候よう、かりそめにも業を怠るようのことなすまじく、一心にはげみまするよう 気を付くべく」
これを見ても分かる通り、英は地元に新しくできる製糸工場で働くために技術の習得に出向いたのである。初期の富岡製糸場を寄宿制の専門学校と見るのは決して無理な解釈ではないのだ。
在籍中は父の激励もあってか、たった1年で技術を習得して富岡を出ている。つまり彼女は創業を開始した最初の1年しか富岡にいなかったのだ。その後は予定通り松代に新しく建設された民間製糸工場の指導工女となった。「富岡日記」はそんな和田英が後年(30年後)、昔を思い出しながらまとめた回想録である。
次の時代の工女達は、和田英の頃とかなり事情が違っている。多くが貧農出身で、もちろん全てが「ああ野麦峠」に登場するような薄幸の少女だったわけではないが、農業労働から工場労働へ移行した日本の産業構造の変化と生まれて間もない資本主義経済の矛盾を、その細腕で受けとめることになってしまった人々である。
和田英が居た頃の富岡製糸場は、1日8時間労働、週休1日であったが、民間の製糸場では毎日12〜14時間働き、月に2日の休みというのが普通になっていった。苛酷な労働は大正5年の工場法施行まで続く。
富岡市や一部の歴史家が、いくら明治初頭の官営工場のことだけを強調しようとも、現在我々が目にする富岡製糸場は、三井、原、片倉という民間企業の手を経た姿である。また操業停止後長く解体されずこの姿を維持できたのは片倉工業に維持管理費を出せる財力と文化財保護意識があったおかげである。
現存する30棟ほどの建物のうち、6棟が明治初期のもので、それ以外は民営時代のものである。もちろん現時点では明治の煉瓦造りの建物や洋館が観光の目玉となるのだが、他の建物に価値がない訳では決してない。
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