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時事問題深読みスレPart2

162凡人:2021/04/19(月) 07:45:11 ID:GkhSRDuE0
しかし、どれほど例証があっても、『ミッドウェー』で書かれた「運命の五分間」、つまりあと5分あれば、海戦の勝敗は逆転していたかもしれない、という脚色に基づいたストーリーの方がずっとインパクトが強いから、いまだにそれが「定説」のように伝えられているのだ。

穿った見方をすれば、これも、惜敗ぶりをアピールすることで、司令部の失態の印象をいくぶんでもやわらげようとする、淵田、奥宮両氏の意向だったのではないだろうか。

たまたま、魚雷回避のため転舵して、他の三隻と離れていたため無傷で残った「飛龍」は、ただ一隻で反撃を試みた。「飛龍」は第二航空戦隊の旗艦で、司令官は山口多聞少将である。

「赤城」「加賀」「蒼龍」の被弾から約三十分後の午前七時五十七分、「飛龍」では九九式艦上爆撃機十八機を、一部(五機)は陸用爆弾を積んだまま、六機の零戦とともに敵空母攻撃に発進させる。続いて十時三十分、友永大尉率いる九七艦攻十機、零戦六機が、司令官以下の見送りを受けて発進。後世、「友永雷撃隊」と呼ばれるこの攻撃隊は、指揮官機をふくむ半数を撃墜されながらも、米空母「ヨークタウン」に二本の魚雷を命中させた。

だが、「友永雷撃隊」についても、『ミッドウェー』には些かの誇張がある。指揮官機は魚雷を発射するのは確認されたが、その後、吸い込まれるように姿を消した、という。

〈米空母に体当りを試みたのではなかろうか、と〉(『ミッドウェー』)

――このとき、攻撃に参加した「飛龍」艦攻隊の丸山泰輔一飛曹(のち少尉)によると、雷撃隊は、友永大尉の第一中隊五機と、橋本敏男大尉の第二中隊五機に分かれ、敵空母を挟み撃ちにする態勢に入った。敵戦闘機や対空砲火の反撃は熾烈を極めたが、結果的に、友永中隊が敵戦闘機を引きつける形になり、魚雷を発射する前に五機全機が撃墜されたものの、橋本中隊が雷撃に成功したという。つまり、友永機が魚雷を発射したというのはフィクションである。
「帰艦すると、艦橋のあたりは騒然としていました。報告もそこそこに、搭乗員室で戦闘配食の握り飯を食べ始めました。ところが、一息つこうとしたその途端に対空戦闘のラッパが鳴って、来たな、と思ったらダダダーンと爆弾が命中しました。あとは他の三隻と同じ運命です」

と、丸山さんは回想する。「飛龍」も沈没し、山口司令官は艦と運命をともにした。

丸山さんとは、2001年、真珠湾攻撃60周年の記念式典が行われた際、ハワイへ同行した。真珠湾での式典を終え、日本に帰る飛行機を待つホノルル国際空港のロビーで、偶然、別の一行で来ていた山口多聞司令官の子息、山口宗敏氏と出会った。宗敏氏は、写真で見る父・多聞少将と瓜二つである。人を介して引き合わされたとき、丸山さんの両目から突然、滂沱たる涙があふれた。宗敏氏の手をしっかりと握りながら、

「『赤城』『加賀』『蒼龍』の三隻がボーボー燃えているなかでね、司令官はわざわざ飛行甲板に降りてきて、私たち搭乗員の手を一人一人握って、『仇をとってくれ』と……」

「飛龍」と運命を共にした第二航空戦隊司令官・山口多聞少将
二人の周囲だけ、瞬時に六十年前にタイムスリップしたような気がした。私は、傍らでただ立ちつくすしかなかった。

「驕り」「情報」「判断」……ありとあらゆる失敗が詰まっているという点で、ミッドウェー海戦が遺した教訓は数多い。だが、その敗戦のなかでも、毅然と戦い、己の任務を果たそうとした若者たちもいれば、酷な言い方かもしれないが、戦後になってなお、保身に走り、失敗を部下のせいにし、隠蔽しようとした「上層部」の幹部たちもいた。

――なんだか、最近、世間を賑わすスポーツ報道で見聞きした話と重なるような気がするのは、私の思い過ごしだろうか。この70数年、人間はたいして進歩していないのかもしれない。
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