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時事問題深読みスレPart2

160凡人:2021/04/19(月) 07:39:39 ID:GkhSRDuE0
吉野さんは昭和13(1938)年、海軍に入隊した甲種予科練二期の出身で、「利根」四号機の甘利一飛曹とは同期生である。雷撃(魚雷攻撃)隊の一員として真珠湾攻撃に参加して以来、多くの実戦で場数を踏んできた吉野さんは、その実力を認められ、索敵のエキスパートとしての専門教育を受けていた。

「フロートのついた低速の甘利の水上偵察機が、敵戦闘機や防御砲火を避けつつ、ここまで触接を続けられたのは大変な努力の賜物です。よく映画で、索敵機が高い高度から雲越しに敵艦隊を発見したように描かれていますが、そんなことはありません。高高度からだと天候に左右される上に敵に発見されやすく、逆に敵艦を見つけにくい。

索敵機の飛行高度は300〜600メートルが通例で、私のこの日の飛行高度は600メートルでした。低空を飛んで、水平線上に敵艦を発見した瞬間に打電しないと、こちらが見つけたときには敵にも見つけられていますから、あっという間に墜とされてしまう。敵に遭えば、墜とされる前に、どんな電報でもいいから打電せよ、と私たちは教えられていました。

たとえば、『敵大部隊見ゆ』なら、『タ』連送。『タ』『タ』『タ』そして自己符号。それだけ報じれば、もう撃ち墜とされてもお前は『殊勲甲』だと言うんですよ。甘利機が一時間以上も触接を続けられたのは、私らはほんとうにすごいことだと思う。『らしきもの』の報告で判断が遅れたなんて、そりゃあ、命じておいて信号文も知らない司令部がボンクラなんです」


空母「加賀」から索敵に飛んだ吉野治男一飛曹(のち少尉)
甘利機が予定コースを大幅に外れていたことについては、吉野さんと同じく、予科練同期生の小西磐さん(少尉)が戦後、当時の資料をもとに精密な類推を試みている。これは甘利一飛曹の航法ミスではなく、日米の記録を照合すると、このとき、「利根」航海士が天測で導き出して、搭乗員に伝えた出発位置そのものに誤りがあり、実際の出発点から索敵線を引けば、甘利機のコースとピタリ一致するという。

本来ならば、「敵艦隊発見」の殊勲を讃えられるべき甘利機についての『ミッドウェー』の記述は、

〈甘利をスケープゴートに仕立てて、作戦失敗の責任をかぶせるために狙い撃ちにした、悪質な欺瞞〉

だと、ベテランの水上偵察機搭乗員だった戸澤力さん(大尉)は、手記「ミッドウェー海戦 惨敗の真相と海戦史歪曲」(甲飛二期会)のなかで断じている。

敵艦隊発見の一報から数十分遅れて、南雲長官は、陸上攻撃向けに転換した第二次攻撃隊の爆弾を、ふたたび魚雷と通常爆弾に転換することを命じた。一刻を要する戦いの最中に、機動部隊のとった行動は、ことごとくとろくさいものであった。陸用爆弾でも、命中しさえすれば敵空母機の発着艦を封じることはできる、あのとき、兵装転換などさせずに即座に攻撃隊を出しておけば……というのは、戦後延々と言われ続けている繰言である。

甘利機の話題に隠れて見落とされているのが、甘利機の北隣り、五番索敵線を飛んだ、「筑摩」一号機(機長・都間信大尉)の失態である。同機は甘利機より先に、敵機動部隊のちょうど上空を通過しながら、雲の上を飛行していて発見できず、しかも敵艦上爆撃機と遭遇しながら報告もせず、索敵機としての任務をいわば放棄していたのである。

前出の吉野さんは、

「雲の上を飛んでいて、索敵機の任務が果たせるはずがない。雲が多くて面倒だからと雲の上をただ飛んで帰ってくるなんて、言語道断です。本人は生きて帰って、戦後、そのことをしゃあしゃあと人に語っていたのですから、開いた口がふさがりませんね」

と容赦ない。甘利機に続いて、敵艦隊との触接に成功した「利根」三号機(九五式水偵)、「筑摩」五号機(零式水偵)は、ともに未帰還となっているだけに、都間大尉のとった行動は、悪く言えば、「敵前逃亡」ととられても仕方のないものであった。

もちろん、「利根」四号機にせよ、「筑摩」一号機にせよ、これだけの大海戦での歴史的敗北の責任を一索敵機に負わせるのは酷であろう。だが、ひとり「利根」四号機だけが悪く言われることに対し、現場の搭乗員の側から強い異議が出されていたことは記憶にとどめておきたい。
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