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時事問題深読みスレPart2

150凡人:2021/04/18(日) 09:41:44 ID:GkhSRDuE0
真珠湾奇襲攻撃(日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明、ハワイ時間12月7日)

アメリカ軍が第2次大戦に参戦する直接のキッカケになったのが大日本帝国海軍による真珠湾攻撃である。その指揮をとったのは元帥海軍大将、連合艦隊司令長官の山本五十六である。

アメリカ軍により日本国を壊滅一歩手前までにした太平洋戦争。そのアメリカ軍と開戦のキッカケをつくった山本五十六は、こんなことを話している。1935年(昭和10年)4月に故郷長岡の阪之上小学校で演説を行い、日本人として重要な恩として「天皇の恩、親の恩、師の恩」を挙げ、「世の中に立って、国の為に尽くすことが、先生に対する生徒の、第一の恩返しになる」と語っている。(ウィキ)

「国の為」が、なんとも皮肉ではないか。また国の為なら他国・隣国の住民(子供・女性・老人の民間人をも含む)の命・土地・財産を暴力で奪っても構わないという意味でもある。暴力団も同じような恩やモットーを掲げていることはまったく偶然ではないことを喚起したい。

日本の真珠湾奇襲攻撃を一番喜んだのは当時、イギリス首相であったチャーチル。彼は何度も、ルーズベルト大統領に戦争介入するよう、アメリカの助けを強く求めていた一人だ。それにもかかわらずアメリカ大統領は重い腰をあげなかった。そんななかでの天皇軍の真珠湾奇襲攻撃である。彼にとっては天からの贈り物として映ったろう。真珠湾攻撃成功で日本は沸き上がった。東京では提灯行列であった。ところがアイロニーにも、アメリカ軍との開戦が、あれほど軍事力で他国を恐れさせたナチスドイツや大日本帝国崩壊の序曲になった。日本天皇軍はアメリカの敵ではなかった。ルーズベルト大統領が最初から恐れていたのはナチスドイツとその科学力。当時のアメリカは世界の軍事力競争では遅れを取っていた。欧米両大陸の相互不干渉を原則とするモンロー主義が外交政策としてとられ、その分国内の経済繁栄を大いに享受していたのであった。日米開戦の初期段階では戦争準備に手間取り、苦戦を強いられたが、徐々に軍事力がアップ。アメリカは戦争開始時の軍事力が世界7位からは戦争終結時には世界ナンバーワンになり、今日に至っている。アメリカ本土はまったく戦場にならなかったのも幸いしている。

アメリカは日本の暗号の解読にいち早く成功。それを成し遂げたのはアメリカのインディアン部族と聞く。山本五十六はその犠牲となって散っていった一人だ。1943年(昭和18年)4月18日、彼の行き先を察知し、ブーゲンビル島ブイン上空で乗機の一式陸攻を米軍戦闘機が待ち伏せ撃墜による。暗号解読が成功していることがばれないようにアメリカ軍はとても気を使ったらしい。ある戦闘では勝てたのにもかかわらず、わざわざ負け戦まで演出してみせたのだ。暗号といえば、ナチスドイツが誇る解読不可能だとも言われる暗号があった。アメリカ軍はそれも解読成功。それを可能にしたのは日本軍である。ドイツ軍中枢と接触して日本に戻ってきた日本大使がなした様々なコミュニケーションをアメリカ軍はスパイ傍聴していた。その資料を基に、すでに成功していた日本の暗号解読と合わせて、ドイツの暗号解読に成功したと記事でよんだ。アメリカ軍にとっては日本軍はさまさまである。頭脳戦争でもアメリカ軍が一歩も二歩も進んでいた。こうなったら戦争の行方は簡単に想像できるというもの。ナチスドイツは気が早く、すでに戦後アメリカ支配の構想をねっていたことを伺わせるドイツ軍所有のアメリカの地図をビデオでみた。

戦時中に連合国軍の首脳会談が行われた。まずはカイロ会談(1943/11/22ー26)。そこに参加したのはアメリカ大統領ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席蔣介石。連合国の対大日本帝国方針と戦後のアジアに関する決定を為した。その二日後のテヘラン会談(1943/11/28ー12/1)ではアメリカ大統領ルーズベルト、イギリスの首相チャーチル、ソ連のスターリンソ連議長が参加。ノルマンディー上陸を含むヨーロッパ戦線の諸問題が話された。期間をおいて、ヤルタ会談(1945/2/4ー11)。ヨーロッパの戦後処理がおもな内容。参加者はイギリスのチャーチル首相、アメリカのルーズベルト大統領、ソ連のスターリンソ連議長。
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