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高経大がわかるプログ・サイトPart2
381
:
凡人
:2021/12/08(水) 15:21:12 ID:yUHee8IM0
ここで言いたいのは、高崎市はとうてい教育の街ではないことだ。前橋市にある国立法人大学の群馬大学は戦前からあった師範学校その他が、現在の大学の学部に引き継がれている。高崎経済大学は1952年開学した商経科のみの高崎市立短期大学を改組したとなっているが、戦後たったの4年間存在しただけ。大学が生まれる確固とした教育的地盤や歴史はないと言っていいだろう。そこで言えることは、ただ群馬大学のある前橋市に対抗するために政治的に無理やり作られた学校(大学と呼んでよいのかわからない。笑い)とだけである。
『短大から大学への移行に際しては、大井正に代表されるように、進歩的な教員が再任されず、事実上追放された。これにかわって、東京大学の元教授で、高崎経済大学初代学長となる田辺忠男、東宝争議時代、経営側としてストに強硬路線で対決した渡辺銕三、ILO日本代表をつとめた北岡寿逸の三教授を中心とした保守派の教授陣を迎えた。田辺は、戦前、東大の革新派として土方成美、橋爪明夫、難波田春夫らとともに知られ、大内兵衛、矢内原忠雄らのマルクス派、河合栄治郎、大河内一男、山田文雄らの純理派と角逐を繰り広げ、一時は辞表を提出した経緯を持つ。』ウィキ
短大の1年次生は、高経大の第2年次生に編入されました。高崎経済大学は、昭和35年3月、第1回卒業生は56人(高階勇輔)。
当時の市長は右翼政治家の住谷氏や戦争中大日本帝国海軍主計中尉に、戦後になって当時マスコミに青年将校とよばれた中曽根康弘氏が高崎市で健在していた当時、4年制大学の高崎経済大学として新たに出発する時点ですでに、学長をはじめとして教員の人事採用に大きく関与していたことが分かるものである。
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