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高経大がわかるプログ・サイトPart2
363
:
凡人
:2021/04/14(水) 10:33:31 ID:GkhSRDuE0
ー高崎藩5万石騒動ー
https://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/gl_rekishi/Jiken/GLH-Takasaki-5-Mangoku-soudo.html
事の発端は、明治維新後に行われた東山道鎮撫総督が行った「農商工布告」にあった。 布告によれば、「苛政に苦しむものは申し出よ」とあった。当時、高崎藩の城付領地の5郷56村の農民達は、他藩の年貢より酷く高い年貢に苦しめまれていた。
1889年 9月 7日 明治2年(1889年)9月7日夜、下之城村(現:高崎市下之城町)の如意寺に、城付五万石領5郷56村の代表が集まった。 召集のふれは100ヵ村にも及び、今日のうちにも蓑笠(農民が町に出るときの服装)で城下に押し寄せんばかりの勢いだった、という。 会議は紛糾したが、要求事項、組織、財政、戦術が決定された。
まず、大総代3名が選ばれ、村々の要求を書いた願証文、車笠連判状、誓約書などが大総代に渡され、大総代は「命懸けて引き受けます」とした受け証を各百姓代に返した。 小八木村(現在:高崎市小八木町)百姓代の清八と弥五郎が「小八木村要求」を大総代3人に託した証文には、畑の年貢は金銭で納税に変更、田の年貢は岩鼻県並み(籾1升に付き米5合納税=50%、高崎藩は73%であった)の税にするよう要求していた。
1889年10月17日 明治2年(1889年)10月17日夜明け、柴崎村(現在:高崎市柴崎町)天王森に前夜から終結した百姓4000人が、西へ向かい高崎城下の通町木戸まで連なったという。 全員、百姓の身分を著す蓑笠で身を固め、小八木村などは村旗を押し立てていた。 直訴は整然と行われ、城下は百姓で埋め尽くされ、願書が3人の大総代から高崎藩役人に渡された。 町の衆も感じるところがあり、炊き出しなどを行って百姓衆をねぎらったという。
1889年10月28日 高崎藩は明治新政府と連絡を取り合ったうえ、「田方新領並(田の税率は50%)、畑方永納(畑の納税は金銭で行う)とする、ただし当年かぎり」と回答した。百姓衆は、永年減税を直訴していたことから、この回答に納得をしなかった。
1890年2月4日 大総代3名、佐野村下中居佐藤三喜蔵、大類村柴崎高井喜三郎、六郷村上小塙小島文治郎が直訴の罪で斬首される。
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