したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

高経大がわかるプログ・サイトPart2

332凡人:2021/03/29(月) 13:14:42 ID:GvDJucak0
教育学会関東地区研究会,2004年。4)戦後における群馬県教育史研究編さん委員会編『群馬県教育史戦後編』上巻,群馬県教育委員会,1966年,747〜748ページ,40周年記念誌編集委員会編『高崎経済大学40年のあゆみ』高崎経済大学,1997年,1ページ。5)昼夜開講制は当時全国に2校だけであったという(前掲『群馬県教育史戦後編』上巻,752ページ,高崎市教育史編さん委員会編『高崎市教育史』下巻,高崎市教育委員会,1981年,947ページ)。6)前掲『群馬県教育史戦後編』上巻,761ページ。7)前掲『高崎市教育史』下巻,952ページ。8)高崎市市史編さん委員会編『新編高崎市史』資料編11,高崎市,2000年,621ページ。9)前掲『群馬県教育史戦後編』下巻,1492〜1493ページ。10)『朝日新聞』(全国版。以下『朝日新聞』はすべて全国版を用いた)1957年2月23日付。11)同前。
3272004年度高 橋 寛 人12)戦後における群馬県教育史研究編さん委員会編『群馬県教育史戦後編』下巻群馬県教育委員会,1967年,1494ページ。13)前掲『群馬県教育史戦後編』下巻1495ページ。14)同前,1493ページ,前掲『高崎市教育史』953〜954ページ。15)三一書房編集部編『資料戦後学生運動』第7巻,三一書房,1970年,207ページ。16)前掲『群馬県教育史戦後編』下巻,1497〜1498ページ。17)前掲『高崎市教育史』下巻,957〜958ページ,『朝日新聞』1965年4月13日付。18)同前。19)『朝日新聞』1965年4月14,15日付。20)『朝日新聞』1965年4月20日付。もっとも,村松喬『教育の森』第8巻(毎日新聞社,1967年)によれば,市長は学長に対し,「聴講希望者全員を,直ちに入学させてほしい。これがいれられないなら,大学の本年度予算の執行を停止する」と迫り,大学当局がこの要求に屈服したとされている(112〜115ページ)。21)『朝日新聞』1965年4月30日付。22)『朝日新聞』1965年4月25,30日付。23)『朝日新聞』1965年8月21日付。24)『朝日新聞』1965年8月22,24日付。25)前掲『高崎市教育史』下巻,958ページ。『朝日新聞』1965年8月22,24,25,26,28日付。26)前掲『高崎市教育史』下巻,959ページ。『朝日新聞』1965年8月29,31日,9月8,9,10日付。27)『朝日新聞』1965年9月10日付。28)『朝日新聞』1965年9月21,22日付。29)『朝日新聞』1965年12月13,16,27日,1966年1月27,31日,2月3日,4月1日付。その後紛争は一時沈静化するが,翌年秋に再燃し,1969年まで断続的にくり返されるのである。ただし,それは地元子弟のコネ入学や私学化といった公立大学特有の問題をめぐるものではなかった。30)『朝日新聞』1967年3月6日付。31)『朝日新聞』1968年3月5日付,前掲『高崎経済大学40年のあゆみ』25ページ。以上が高崎経済大学における入試をめぐる紛争の経緯である。ただし,この頃,他の公立大学でも入試をめぐる問題がしばしば報道され,世間の批判を浴びていた。市立北九州大学では,1965年4月,有力市議が依頼した11名を補欠入学させた(『毎日新聞』1965年4月18日付)。横浜市立大学では,1967年2月,横浜市民の子弟や運動部員を優先入学させていることが報道された(『朝日新聞』1967年2月10日付)。奈良県立医科大学の場合,1959年以降県幹部,県会議員あるいは同大学の教授から紹介のあった受験生で合格点に満たなかった者を毎年10名程度入学させていたことが,1968年に明るみに出た(『朝日新聞』1968年5月12日付)
5/5


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板