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高経大がわかるプログ・サイトPart2

331凡人:2021/03/29(月) 13:12:51 ID:GvDJucak0
求にしたがって収拾案をまとめた。それは,①公立を維持すること,②大学経営は市財政を配慮して行うこと,③地方大学の建学精神の特殊性をいかすこと,④大学当局責任者の退陣であった。学生側は授業料値上げを含む調停案に反対して,9月から再び同盟休校に入った。文部省も非公式ながら調停に乗り出し,調停案を示した。しかし,市長は,大学の教授会が決定した新学長の発令を拒否し,別の教授を学長事務取扱として発令したため,教授会との対立がさらに深まった26)。


4  市議会各会派による私学化反対
市議会各会派はさらに協議を続け,私学化案が議会に提出されても共同して否決することを確認し,ここに私学化は不可能となった27)。9月下旬の議会では私学化の提案はなされず,かわりに学費と受験料の値上げが可決された。値上げは次年度からで,授業料は年間2万円から3万5千円,入学金は1万円から2万5千円,受験料は3千5百円が5千円へと,大幅な値上げであった。値上げに反対して市議会の議場前にすわりこんだ約500人の学生が警官隊に排除され,学生6名が逮捕された28)。 他方,大学当局は,9月はじめに聴講生の編入試験を行い,87人中47人を合格とした。その後12月,合格しなかった40人に対してもう一度編入試験を実施し,33名を本科生に編入することを決めた。学生側はこれに強く反対して後期試験をボイコットしたため,教授会は試験を延期せざるを得なかった。試験ボイコットをめぐって学生が3名逮捕された29)。なお,1967年度入試より合格者の数を大幅に増やした。既述のように,定員200名のところ,従来はその約2.5倍の500名前後の合格発表をしていた。この中から例年200〜300人が他大学に抜けるので,その分を補欠合格で穴埋めして,結局,500〜600人を入学させていたのである。しかし,補欠入学がコネ入学に絡んでいたことから,1967年3月の合格発表より,当初の合格発表時に従来の補欠合格分もあわせて合格者1351人としたのである。これは定員の6倍をこえる数であった。文部省は「常識をはずれるもの」とコメントし,定員より多く入学させるならば学生定員増が必要であると指摘した30)。この問題について翌1968年3月,大学の事務局長は,「定員を厳守していては収入が少なくてやっていけない。収入増によって教官や施設の充実策を図り将来は定員を増やしていきたい」と説明したのであった。その後1969年9月に市議会で定員増の議案が可決され,翌年4月,12名の新任教官を迎えて,入学定員が400名に増員されたのである31)。

注】1)文部省調査普及局『教育刷新審議会要覧』1952年,43ページ。2)これら3大学のほかは,後述するように,岐阜薬科大学(岐阜県岐阜市立,1949年開学),金沢美術工芸大学(石川県金沢市立,1955年)のみである。短期大学を見ても,政令都市を含めて10校,政令都市を除くと6校に過ぎなかった。すなわち名寄女子短期大学(北海道名寄市立,1960年設置)前橋市立工業短期大学(群馬県前橋市立,1952年)大月短期大学(山梨県大月市立,1955年)岐阜女子短期大学(岐阜県岐阜市立,1950年)三重短期大学(三重県津市立,1952年)尾道短期大学(広島県尾道市立,1950年)である。3)本論文は,地方自治体と大学との関係に関する研究の一環である。これまでの論稿に以下のものがある。拙稿「公立大学をめぐる政策に関する史的検討」『教育制度学研究』第7号,日本教育制度学会,2000年,公立大学協会編『地域とともにあゆむ公立大学』第1編第1・2章(拙著)公立大学協会,2000年,拙稿「大学大衆化以降18歳人口急増期までの間における公立大学の新増設」『横浜市立大学論叢人文科学系列』第52巻第3号,2001年,拙稿「18歳人口減少期における公立大学の急増」『経済と貿易』第184号,横浜市立大学経済研究所,2002年,拙編著『公設民営大学設立事情』東信堂,2004年,拙稿「大学と地域20世紀日本の公立大学のあゆみをふまえて」『20世紀教育学からの課題』日本
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