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高経大がわかるプログ・サイトPart2

329凡人:2021/03/29(月) 13:09:21 ID:GvDJucak0
機関は群馬大学のみであり,しかもその学部は学芸学部と工学部と医学部の3学部に限られた。したがって,人文・社会科学を学ぼうとすると県外に出なければならない状況であること。第二に,青年が夜間高等教育を受ける機会がないことをあげ,「県内交通至便の位置に産業経営に関する昼夜間就学の便を有する大学の設置は県民ひとしく要望しているものである」と記している。市立高崎短期大学は,勤労青年にも門戸を開くため昼夜開講制をとったことが大きな特徴であった5)。短大の設置認可申請書に「可及的速に4年制大学の設置に総力を結集せんとする」と記されているように6),4年制大学への昇格は短大設立時からの計画であった。1955年5月,住谷啓三郎が新市長に就任した。新市長は就任直後,施政方針の談話の中で短大の廃止を表明した7)。 市立短期大学は早速廃止する。1300万円もの赤字を出しているとのことだが,短大は中途半端な教育だから意味がない。(中略)4年制大学に昇格することは財政上無理だから結局廃止する8)。 短大廃止の談話に驚いた教授会・学生自治会は,大学存続の陳情・署名運動を行った。市長はその後短大廃止の考えを改め,予算削減を行うけれども4年制への昇格を認める。12月の定例市議会で市長は,短大は商学・経済学専門の大学であるのに,教養部門の教員が多く,商学・経済学専門の学者は少ないことを問題にした。そして「現在の短期大学は最低500万円の市費の投入を減らさなくてはならん」とも答弁したのであった。ともあれ,翌1956年9月の市議会で高崎経済大学の設置案が可決された9)。

2 4年制への改組
昇格後の大学の学長には,田辺忠男が就任することになった。ところが,4年制への移行に際して,短大教授19人のうち経済大学に教員として残るのはわずか6名にすぎず,残る13人は排斥された。市当局は,短大と高崎経済大学は別の大学だから教授陣を引き継ぐ必要はない,また13名は東京から通勤していて出講率が悪いことを考慮したなどと述べた10)。解雇された大井正教授らは,「新大学は田辺忠男学長以下,渡辺銕蔵,北岡寿逸氏らを教授に迎え,われわれ13人を思想的に面白くないとして整理したのだ」と訴えた11)。『群馬県教育史』は,『高崎経済大学新聞』記事から引用して,次のように記している。排斥の対象は「短大の色に染った教授たちでありその他彼らを信奉する一部の学生を含む共産主義者であって,彼等に第一の矢が向けられた。田辺,細野両教授を先頭とする排斥運動は3ケ月間強力に推し進められ,次々と共産主義者たちは追放されて姿を消して行くか,羽をもぎ取られるかしていった12)」。後に,田辺学長は「建学の精神」を『入学案内書』に書いた。そこでは,高崎経済大学における経済学の立場を次のように記している13)。われわれの専門的研究は経済学であるが,マルクスの第19世紀的誤謬を指摘しケインズの大戦後のイギリス的諸条件に制約された抽象に失する点を批判し,現実的・社会的な学風を持って日本の再建に役立つ理論と政策を究明するとともにその応用の才能を展開することを期する。マルクスもケインズも批判する経済学であった。1956年10月,大学の設置認可申請書が文部省に提出された。短大の教授会は,短大施設を新設大学に譲渡することへの反対を表明した。これに対し,市議会では短大の廃止と4年制大学の設置を議決した。短大の昇格ではなく,大学の新設という形をとったのであった14)。こうして1957年4月に高崎経済大学が開学した。この事情を,高崎経済大学の『自治会新聞』は,後日次のように書いている。「短大当時は,革新系市長や進歩的教授陣に支えられて自治会活動は......積極的な運動を展開し,群馬大学と共に学生運動に於ける拠点校的存在でさえあったのである。しかしながら4年制大学への昇格と共に,市長は保守系の住谷氏へ変っており,それに伴って短大当時の一流教授陣もやめさせられていったのである。(中略)初代学長に,当時保守反動の大御所的存在であった田辺学長をすえた15)」。ここでは,短大から4年制への移行期に,市長の政治的なスタンスが大学の学長,教員人事に大きく影響を与えたことが指摘されているのである。 住谷啓三郎は1959年4月の市長選で再選を果たす。公約のひと
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