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高経大がわかるプログ・サイトPart2
192
:
凡人
:2019/04/03(水) 09:02:42 ID:aa/QkHo60
高崎経済大学の大学紛争とは何か?高崎経済大学の秘密主義、隠ぺいの物凄さ。たとえばほんの一例「理事・評議員のなかに、大学出入りの業者が何人もいること。」それが継承されて現在に至っている。自己改善は無し。高崎経済大学の学園紛争の発端は、そうした疑問をもつ教員や学生たちの活動から発展していったのだろう。一言で高崎経済大学の民主化運動だったと予想する。当時の強い愛校心故、学生にとっては切実な問題だった。だからこそ他の大学にみない盛り上がりを見せたのだと容易に理解できる。愛校心ない奴だったらどうでもよいこと、そこまでできないだろうに。
*****
https://www.himekuri.net/d38/yanooffice/200509/9.html
2005年 9月 9日(金)
財団法人高崎経済大学後援会
マクド問題の中心に位置する高崎経済大学後援会。これはいったいどのような組織なのでしょうか。
高崎経済大学後援会には50年近い歴史があります。高崎市立短大が「廃止」され、4年制の高崎経済大学が「新設」された1957年の7月22日、後援会はできました(高崎経済大学は短大が4年制大学に「昇格」したのではありません。短大が「廃止」され、4年制大学が「新設」されたのです。誰がお書きになったのか知りませんが、この点、『たかけい学報』73号、2005年夏号、22頁の記述を訂正しておきます。実際、短大から新設大学に移れた教員は、ほんの数名です。何が起こったか、お分かりいただけるでしょう)。
その後、1960年10月7日、民法第34条(公益法人の設立)「祭祀、宗教、慈善、学術、技芸其他公益に関する社団又は財団にして営利を目的とせさるものは主務官庁の許可を得て之を法人と為すことを得」に基づき、文部大臣から設立許可を得て「財団法人」となりました。財団法人としての歴史は45年におよび、歴史の長さでは、大正時代からある一橋大学の「如水会」には及ばないものの、「神戸大学六甲台後援会」にはひけをとりません。文部科学省認可の財団法人としては老舗なのです。何度も書いてきたように、財団法人である以上、その「寄附行為」に則って管理・運営されねばなりません。後援会にとって「寄附行為」は、いわば「憲法」なのです。これが守られているかどうか、非常に重要です。
「大学の施設・設備及び教育研究活動を助成することによって大学教育の充実発展に寄与すること」を目的とする財団法人高崎経済大学後援会の最初の大事業は、現在の場所に大学を移転する際の用地確保、本館、体育館、教室棟建設工事を高崎市と共同で行なうことでした。市の一般会計予算中、教育費が2億4000万の時代、1億7000万にのぼる費用を高崎市が負担することはできません(高崎経済大学予算は現在に至るまで、高崎市の「一般会計」のなかでまかなわれています。高崎経済大学の「特別会計」が組まれているわけではありません。この基本的事実を知らないために、おかしな議論をする人が専任教員にもいて困ります)。後援会が融資を受け、市が後援会に補助を行なうという形で事業が進められたそうです。1億7000万は、財団法人としての初代理事長S氏が個人保証の形で借り入れなければなりませんでした。創成期というのは、いろいろと大変なことがあるものです。入学生から後援会費として寄付をとるようになったのも、借入金の返済財源に充てることが始まりのようです。
その後、後援会は、新入生からの寄付金や市の補助を受けつつ、大学内の様々な施設、福利厚生施設等の建設を行なってきたほか、現在では、学生のクラブ・サークル活動の支援、ゼミをはじめとする教育活動、教員の研究活動の補助、出版助成なども行なうようになっています。
さらっと書いてしまえば、後援会の歴史はこれだけだし、大学にとってきわめて有益な組織と思われるでしょう。実際に有益だったと思います。後援会があったがゆえに、ここまでの大学になったと言える面もあるでしょう。でも、そんなよい面ばかりではありません。
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