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高崎がわかるプログ・サイトPart3

508凡人:2018/03/09(金) 06:34:00 ID:AaSPFmRQ0
群馬県高崎市の歴史は血塗られた歴史。ところが地元ではなかなか大きな話題にならない。高崎五万石騒動や高崎経済大学の「圧殺の森」事件といい、正義はいつも権力側の面子を立てることで終始し、沈黙で終る。その政治や思想の中味は歴史は繰り返しされても、権力側の反省もないから将来にあっても民主主義が広まるという楽観もない。大日本帝国陸軍の歩兵連隊のひとつである歩兵第十五聯隊が創られた高崎市。日清・日露戦争から、満洲・上海両事変、支那事変、太平洋戦争とほぼすべての戦役に参加したという。地元では炭鉱スト鎮圧にも出動。高崎経済大学の大学直属応援団がその「栄誉」を演舞で一般市民に公開披露もしている。戦後生まれた公立大学が何の疑問もなく歩兵第十五聯隊を賞賛するということが現在でも行なわれている現実。意識の高い人間だったら、右翼や暴力団以外どんな人間がこんな土地に移住したいと思うのか。高崎が移住計画思索に真剣になるほど、失敗するのが既に明らかなので呆れている。ただ映画や音楽に従事する人間たちは社会正義に対して意識の高いことはアメリカの実例でもよく分かっている。彼らが高崎の文化や思想に将来全体としてどれだけ影響する勢力になりえるのか。その勢力の層の厚さの多寡に、高崎市が注目される文化都市になる鍵も潜んでいるように凡人には思う。
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稼働1年足らず、特攻隊の拠点となった「陸軍前橋飛行場」とは ドキュメンタリー映画制作へ、クラウドファンディングで支援募る
群馬県前橋、高崎の両市境付近にかつて、特攻隊の訓練や飛行機の製造に使われた陸軍前橋飛行場があった。
2018年03月07日 11時36分 JST | 更新 2018年03月07日 11時36分 JST ブログ 
https://www.huffingtonpost.jp/aport/documentary-movie-project_a_23373957/ 

 群馬県前橋、高崎の両市境付近にかつて、特攻隊の訓練や飛行機の製造に使われた陸軍前橋飛行場があった。終戦までわずか1年足らずの稼働だったが、若者たちが飛び立ち命を失った。そんな飛行場や隊員らを知る人たちの証言をまとめたドキュメンタリー映画の制作が進んでいる。監督は「飛行場に焦点を当てて戦時中に群馬で何があったのか伝えたい」。制作費や上映活動費にあてるため、クラウドファンディングで支援を募っている。

Asahi
画像=陸軍前橋飛行場で地元の子どもと記念写真におさまる特攻隊員ら(高崎市の志村邦雄さん提供)

■造成に地域から動員
 高崎市棟高町の大型ショッピングセンターの南東。主に畑地となっているこの周辺に1944年、陸軍前橋飛行場は造られた。

 旧群馬町(現高崎市)が2002年に発行した町誌などによると、太平洋戦争で日本が劣勢になりつつあった42年春以降、巻き返しを図る旧日本軍が、飛行兵を養成する教育用飛行場を全国に相次いで建設した。前橋飛行場はその一つだったという。

 1943年春、陸軍航空本部の大尉が村役場を訪れ、飛行場建設のため、農家らに土地の提供を求めた。

Asahi
画像=陸軍前橋飛行場があった周辺=飯塚俊男監督・製作協力委員会提供

 飛行場の面積は約160ヘクタール。1年余の工事期間には、各町村の青年団や教員組合員、国民学校の生徒らが勤労奉仕として動員された。4〜5メートルの高低差があった敷地を地ならししたり、誘導路を造成したりと作業を担い、1日当たりの就労人員は最多で2111人だったとの記録もある。前橋刑務所で服役する受刑者らも動員された。

 その後、軍用機を生産した中島飛行機の分工場や特攻隊員の訓練場に転用され、敗戦まで使われた。

 同飛行場の研究を続けてきた旧群馬町の元教育長、鈴木越夫さん(73)=高崎市金古町=は、「短期間に造られたうえに特攻隊の訓練もあったためか、当時は飛行場の存在自体が知られていなかったようだ」と話す。
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