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高崎がわかるプログ・サイトPart3

363凡人:2017/10/14(土) 06:26:19 ID:R.OzoZ.k0
「行列ができるラスク店」の意外すぎる来歴
地元菓子店の運命が一変した3つの転機とは?
岡崎 裕信 : 帝国データバンク 群馬支店 情報記者
2017年10月11日 東洋経済

行列のできるラスク屋さんとして知られる、「ガトーフェスタ ハラダ」。実は、群馬県高崎市の老舗和菓子店が発祥だ(写真:原田提供)

洋菓子店「ガトーフェスタ ハラダ」の都内デパ地下の売り場は、年末年始の帰省シーズンやバレンタイン、ホワイトデー前となれば、女性客であふれかえる。お中元やお歳暮などの贈答品としても重宝されるため、地方百貨店からは催事への出店要請が引きも切らない。

お客さんがこぞって買い求めるのは、ラスク「グーテ・デ・ロワ」だ。フランス国旗をモチーフにしたパッケージを見れば、ピンと来る人も多いだろう。

◆「行列のできるラスク店」、発祥は群馬の和菓子店
“行列ができるラスク店”として知られる原田だが、全国的にその名を知られるようになったのは、ここ十数年のことだ。

原田の歴史は古く、1901(明治34)年に群馬県高崎市で創業した老舗菓子メーカーだ。ただ、創業から100年余りは、地元、群馬県高崎市とその周辺だけに知られたお店だった。

それが、2000(平成12)年発売の「グーテ・デ・ロワ」発売と派生商品のヒットにより飛躍的に成長、その名は一気に全国へととどろいた。

ラスクの爆発的ヒットの裏側には、時流に合わせて業態を変化させる、柔軟な経営があった。

原田といえばラスク、というイメージが強いため、創業時から洋菓子店だったと思われがちだが、実はその始まりは「松雪堂」という和菓子店だ。東京の有名和菓子店で修業した初代・原田丑太郎氏が1901年に創業し、高崎市郊外の旧宿場町(当時の多野郡新町)で、まんじゅうや大福を製造・販売していた。太平洋戦争に突入し、物資や食糧不足が続く困難な時代になっても、家族一丸となって地元住民から愛される小さな和菓子店をなんとか守ってきた。

それが、現在のような全国区の菓子店へと成長した背景には、どのような転機があったのだろうか。

1つ目の転機は、終戦直後の製パン・洋菓子業への参入だ。戦後のコメ不足で、当時の日本ではアメリカが救援物資として放出した小麦を加工し、配給パンが作られていた。そこに目を付けた原田は、1946(昭和21)年には早々と製パン業に参入、学校給食向けや一般顧客向けのパン製造を開始。当時は「原田ベーカリー」と呼ばれた。

さらに、日本人のライフスタイルや嗜好が欧米化していくなか、ケーキをはじめとする洋菓子作りにも進出。こうして、1960年代には、パン・洋菓子・和菓子と3つの商品を扱う地場の食品メーカーとなった。

1967年(昭和42年)には給食パン部門を別会社化(3代目・原田俊一氏と知人が共同出資するパン工場)。これにより、製パン事業の規模は縮小し、和・洋菓子の製造がコア事業となって成長していった。

が、バブル崩壊後に原田は大きな危機に直面する。景気の悪化によって、引き出物向けや贈答品向けを含む菓子の需要が大幅に減少した。さらに、コンビニや大型スーパーの攻勢もあって、業績は年を追うごとに悪化。1997(平成9)年からは3期連続赤字も余儀なくされた。

こうして、いわば会社が危機的状況に瀕しているなかで社長に就任したのが、4代目・原田義人氏だ。大学で建築学を専攻していた同氏はゼネコンに勤務していたが、3代目・原田俊一氏の長女・節子氏(現・専務)との結婚を機に原田に入社。入社当初は畑違いの分野で戸惑うことばかりであったが、洋菓子に関する専門書を読み、菓子職人の講習会に参加するなど、ひたすら勉強。1998年(平成10年)、義父に代わって社長に就任したのだった。

◆異業種社長が、全国向けにラスク発売
この異業種社長が、会社の命運を懸けて挑戦したのが、全国展開開始と、ラスク「グーテ・デ・ロワ」の発売だった。これが2つ目の転機となる。

写真=戦後に始めた製パンのノウハウを応用し、ラスクの発売に打って出た原田義人社長(筆者撮影)
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