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高崎がわかるプログ・サイトPart3
206
:
凡人
:2017/08/10(木) 03:07:51 ID:gYWljT360
産経らしい記事。いつも戦争の話になると、日本は戦争の末期の日本兵の玉砕や空襲の話になる。隣国への侵略戦争を勃発・拡大し、原住民の大量殺戮をさせた日本兵や「勇敢な愛国心」を煽りたてた大日本帝国の軍部と天皇を含めた当時の日本政府の話は一切言及しない。この盲目の「勇敢な愛国心」にいまだ未練がのこる作家の記事がこれだ。ついでに言っておくが、敗戦したからこそ、今の日本の民主的憲法があり、暴力団追放や戦争前では考えられなかった民主主義があることも忘れてはならない。「今に生きる私たちは、彼らの志に応えているだろうか」?平和になることが、彼らの死に報いることだろう。アメリカと日本は今や友好国。この歴史的皮肉。「玉砕」は洗脳や盲目に権力に従うことによってもたらされた「悲劇」だと言えるだろう。
*****
【ペリリュー島 忘れられた戦場を訪ねて】
(下)妻へ「会い度くば靖國神社へ来れ」
2017.8.9 07:03 産経
先の大戦で日本軍約1万人が玉砕したパラオ諸島ペリリュー島。米軍の死傷率も史上最大で、その犠牲者の多さと過酷さから、ほとんど語られず「忘れられた戦場」と呼ばれる。今も痕跡が至るところに残り、激戦を伝えている。
慰霊で訪れた南北9キロ東西3キロの島の北部には、4階建てビルに相当する壕を山全体に巡らせた「千人壕」と呼ばれる水戸山陣地が、当時のまま保存されている。
中に入ると、広い部屋も確保され、野戦病院として使用された壕もある。陣地を守っていたのは、引野通広少佐率いる独立歩兵第346大隊556人と海軍軍属。蒸し暑い壕にこもり、砲爆撃にさらされる不安、その後に訪れる死しかない敵との決戦…。兵士たちは壕の中で何を思い、何を語り合ったのだろうか。
日本軍守備隊は島の各地で敢闘するも米艦隊に包囲され、補給路を断たれ、弾薬も食料も途絶え、昭和19年11月24日には中川大佐らが自決、最後の電文が打たれた。
--サクラ、サクラ、サクラ 我が集団の健闘を祈る
11月27日、米軍が全島を占領し戦闘は終結した。しかし米軍も深手を負い、戦死2336人、戦傷者8000人以上という甚大な損害を出した。「3日もあれば占領できる」。米海兵隊第1海兵師団を率いるウィリアム・M・ルパータス少将は、そう豪語していたが、4万人の海兵、陸軍部隊をつぎ込み、上陸後、73日を費やした。
日本軍守備隊の抗戦は米軍の予想をはるかに上回る敢闘であり、ペリリュー島神社に建立された碑には米太平洋方面艦隊司令長官C・W・ニミッツの言葉も刻まれている。
諸国から訪れる旅人たちよ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ
米太平洋艦隊司令長官
C.W. ニミッツ
北部の「みたま」と南部の「西太平洋戦没者の碑」を訪れた。天皇、皇后両陛下も慰霊された「西太平洋戦没者の碑」につけられた目は、靖国神社の方角を向いている。
米軍上陸直前の7月7日、パラオの国民学校で訓導(小学校教諭)をしていた仲西貞夫に、召集令状が届いた。翌日、仲西は日本にいる妻、貞子に手紙を出した。
--情勢次第に悪化しパラオ島防護の為 昭和十九年七月七日名誉の召集令状を受く
男子の本懐之に過ぐるものなし、又家門の誉なり
勇躍入隊 大君の醜の御楯として米英軍を撃滅せん
戦死の報ありとても決して取り乱さざること
魂は靖國の神として永久に皇國を守る
会い度くば靖國神社へ来れ
お前の身のことについては父とよく相談せよ
軍人の妻としての体面を保て
父母に孝養を頼む
身体に気をつけて朗かにくらせ
ながらくのお世話ありがたう 深謝す
白墨を歩兵銃に持ち替えた仲西先生は、陸軍軍曹として20年7月19日、戦病死する。32歳だった。
美しい蒼海と濃緑のペリリュー島で戦死した1万人の将兵は、故郷の両親や幼い弟、妹、嫁いでいった姉、愛しい妻を守るために亡くなった。
今に生きる私たちは、彼らの志に応えているだろうか。(将口泰浩=作家)
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