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高崎の野蛮人たち
311
:
凡人
:2015/05/24(日) 02:46:10 ID:qTuIL1.o0
足尾鉱毒事件、根絶運動を後世に 群馬・太田
2015/5/11 12:29〔共同〕
日本の公害の原点とされる足尾鉱毒事件で根絶運動を続け、昨年12月に93歳で亡くなった板橋明治さんらの取り組みを後世に伝えようと、群馬県太田市は鉱毒被害と運動を紹介する展示室を5月下旬に開設する。板橋さんの遺族は「人々がどのような思いで環境問題に取り組んだのか知ってほしい」と話す。
板橋さんは現在の太田市出身。遺族によると、子どもの頃から祖父や父から鉱毒被害の話を聞き、事件を告発した明治時代の政治家、田中正造を尊敬していた。根絶運動に力を入れるきっかけとなったのは1958年、渡良瀬川上流にある栃木県の堆積場の決壊だった。鉱毒を含む土砂が中流の群馬県にも流れ込み水田を汚染した。
被害農家らは鉱毒根絶に向け、後に板橋さんが会長を務めた「渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会」の前身団体を立ち上げた。地元で村議会議員などを務めた板橋さんは、熊本県の水俣病など各地の公害の状況を視察し、水質の科学的調査手法を独学した。長女の美代子さん(62)は「父は大雨や台風になると鉱毒の流出を心配し、家を飛び出して川を見に行くことが何度もあった」と振り返る。
板橋さんは被害農家らと原因企業の古河鉱業(現古河機械金属)に損害賠償を求める調停を申し立て、74年に国の公害等調整委員会で農地汚染の責任を古河側に認めさせて調停が成立した。
その後も同盟会の会長として、水質の監視や啓発活動を続けた。「『鉱毒との戦いはこれからだ』が口癖で、歴史を伝承したい気持ちを常に持っていた」と話すのは、妻の茂子さん(87)。板橋さんは根絶運動を後世に伝えようと、展示施設の整備を太田市に求め、同市は2013年度に開設を決めた。だが板橋さんは昨年体調を崩し、オープンを見届ける前に亡くなった。
展示室は太田市内の学習文化センターに設けられ、板橋さんらが調停時に農作物被害などを訴えるために提出した資料のほか、当時の農地や山の写真などを公開する。同盟会の茂木順三事務局長(83)は「川に魚が戻り、足尾の山も緑化が進んだが鉱毒対策は今も必要。語り継ぐことがわれわれの使命だ」と話した。〔共同〕
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