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俺は小説家を目指している。
206
:
イチゴ大福
:2005/03/04(金) 20:32:59 ID:5cN.MTjs
40.最後の血の一滴。
石畳のフロアに冷たく響く靴の音で、彼女はその存在を知覚していた。そして、その笑顔や、指のなめらかさ、言葉の妙なる調べや、彼女を包む優しい動作を思い返し、それを憶えている身体が、愛おしさを、中枢神経を伝って、視床下部、視床、下側回頭、室傍などから大脳とその運動野、視覚野、そして連合野に上向させ、前頭葉と大脳、その辺縁系において激しい化学反応を示す。細胞に侵入する神経伝達物質のエンドサイトーシス。軸索が求めるシナプス受容器のモノアミン・レセプター。膜電位変換を期待するニューロン細胞の連結構造。細胞のひとつひとつが、彼を記憶し、思い出し、再現していた。
「ただいま。四季、いるのか?」
彼はヴァイオリンケースを抱えたまま、薄暗いリビングに足を踏み入れた。そこには、弱い月明かりを受け、立ち尽くす四季の姿があった。腰まである長い黒髪は、まるでそうであることが当たり前であるかのうな几帳面さで、重力に従い、まっすぐに、光沢を放って下を向いていた。そこに存在するためにだけに造られた石膏彫像のような、非現実的な、そして安易な感情を受け付けない完璧ともいえる美貌で、四季はそこに佇んでいた。
「ただいま。暗くしてどうしたんだ?寒くないか?」
「明かりを点けないで!」
彼が明かりを点けようとするのを冷徹な氷の冷気の鋭さで止めた。彼は腕を止め、スイッチから手を離した。
「ケルトナー。あなたをいつも近くに感じるわ。」
うっとりとするような、甘味な言葉の調べ。ケルトナーは四季の様子がおかしいと気づき始めた。恍惚とした、夢でも見ているようなぼんやりとした表情で、彼女は欠けた月を眺めていた。月の魅せる狂気なのだろうか?彼はあくまで平静をよそおう。
「最近忙しかったからね、寂しい想いをさせたかな?しばらくは海外公演もないから、来週のコンサートが終わったら外で食事でもしよう。」
彼はヴァイオリンケースを置いて、彼女のそばに近づいた。
彼女も彼の方へ身体を向ける。その手には銀のナイフが、冴えた月の光を受けて煌いていた。ケルトナーはナイフの意味を察したのか、それを見るなり彼女に飛び掛った。彼女の手に握られたナイフを奪おうと、ケルトナーは彼女の腕を引っ張った。しかし、それに抵抗しようとした四季は、手首を返し、ナイフの先をケルトナーの身体に向けていた。ケルトナーが勢いよく引っ張った腕はナイフを固定したまま、ケルトナーの表皮を貫き、心臓細胞を深く貫いていた。激しい鮮血が迸しった。それは彼女を濡らし、床を濡らし、壁にまで彼の血で染めた。それが最後の、彼のメッセージであるかのような、生命の力強さを見せ付けようとするかのような血飛沫が、部屋を静かに塗り替えていた。
心臓を貫かれたケルトナーはナイフを身体に残しながら、仰向けに倒れた。仰臥するケルトナーの頭を自分の膝に乗せ、その冷たい身体を抱きしめる。しかし、すでにケルトナーの意識はなかった。黒い真珠のような瞳からは、大粒の涙がこぼれていた。ぶるぶると震え、彼を殺してしまったことの後悔が彼女の思考を支配していた。
「ケルトナー。あなたを殺すつもりはなかった。あなたに見ていて欲しかった。私が生まれ変わる瞬間を、あなたに見届けて欲しかっただけだった。」
微塵も動かない彼の顔に、彼女は頬を押し付けた。涙と鼻水とが彼の顔に流れ落ちる。彼の髪の毛をくしゃくしゃに撫で回し、そこにケルトナーのいた証を見出そうとしたが、それは既に、“力”を失った肉の塊でしかなかった。彼は人間と死人を隔てる境界線の向こう側にいってしまったのだった。もはや、そこには死と残された肉の塊の腐敗しか存在してはいなかった。
彼女はとめどなく溢れる涙を拭うこともせず、ケルトナーの肉体からナイフを抜き去った。血が噴出したが、その勢いはもはやたいしたものではなかった。
無言でナイフを自分に向けて握り締めると、一瞬のためらいもなく、自分の胸を貫いた。噴出した血はケルトナーの血に混じり、覆い、侵食して、さらに広がっていった。彼女は彼の上に覆いかぶさるようにして倒れた。
静寂の中に二つの死体と一本の銀のナイフ。静謐さの暗黒に取り残された肉体は、もはや時の流れを拒むかのように、静かな眠りについていた。
人の死とはなんとも呆気ないものだろうか?そこには、天使の歌声も、神の祝福も招かれず、劇的な変化や感動的な幕切れすら用意されてはいなかった。「すべて死はこうあるべく予見されていたためしはない」と、死神が二人の遺体に説教を垂れるわけでもなく、粛々と、時は腐敗の時間を刻んでいた。それは、自然という閉鎖系のシステムにあって、当然そうでなくてはならない物理現象であり、誰も疑いようのない真実だった。
そう・・・・・・二人の時間は、その時すでに終わっていたのだった。
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