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8木先生のスレ
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――日本側はどう対応したのでしょうか?
意外かも知れませんが、全権の松岡洋右は粘りに粘って交渉しました。ただ、主たる交渉の向かう先が本国の外務大臣、内田康哉であったことは悲劇でした。イギリスの仲介や中国政府内の対日妥協派の態度に望みをかけていた内田外相は、連盟の「19人委員会」がまとめた解決案に妥協すべきだとの、松岡全権のもっともな要請を拒絶し続けたのです。
33年1月、松岡は「物は八分目にてこらゆるがよし」とし、「脱退のやむなきにいたるがごときことは、遺憾ながらあえてこれをとらず」と述べ、妥協を内田に薦めます。しかし、内田は、日本側が強硬に主張し続ければ、イギリスと中国は最後に日本に屈服するとして、最後まで妥協を許しませんでした。
写真=松岡洋右
――なぜ内田外相は、二国間協議でいけると楽観的だったのでしょうか。
中国の国民政府内に、汪兆銘など対日妥協派がいたのは事実です。この勢力に内田は賭けたといえる。ただ、外相としての内田が時代遅れとなっていたのも事実です。
内田の外相デビューは第二次西園寺公望内閣の時、明治から大正の変わり目の頃でした。2回目の外相は原敬内閣時代、大正半ばのこと。1930年代の中国の動静にどれだけ内田が通じていたか疑問です。軍事と政治の双方の権力を握っていたのは蔣介石でした。
――いわば、蔣介石の独裁ですよね。汪兆銘に実質的な権力はなかった。
そうです。そして、満州における政治と軍事の実権は、張作霖の子息である張学良がなおも握っていたはずです。蔣介石にとっては、満州(東三省)に対し、実質的に関与できるのは外交権しかない。ですから蔣介石からすれば、連盟の「公理」に訴えること、つまり中国の外交権を代表する者として満州問題を扱うしかなかった。連盟に対する蔣介石のスタンスを内田は理解していなかったと思います。
写真=蔣介石(左)と汪兆銘
当時の日本政府もジャーナリズムも、32年10月に公表されたリットン報告書に対し、中国側に肩入れしたものという評価を下し、その内容を精査せず徹底的に批判しました。私が惜しいと思うのはそこで、リットン報告書が展開していた日本側への妥協的な選択肢を見ていなかった。
日本側は、「リットン報告書が満州国の存在を認めている」との根拠のない楽観的な下馬評を信じていたため、実際に報告書が出た時には狼狽し、文書の正確な含意を読み取ることができませんでした。
■2つ目の岐路:日独伊三国同盟(1940年)
写真=日独伊三国同盟の調印式
――2つ目が、第二次世界大戦が勃発した翌年に日本・ドイツ・イタリアが結んだ日独伊三国同盟ですね。
この同盟は39年9月から始まった第二次世界大戦と、37年7月から始まっていた日中戦争にアメリカが介入しないよう、日独伊3カ国がアメリカを牽制するために40年9月に結んだ条約です。
日本がこの時期、ドイツ・イタリアと同盟を結んだインパクトは非常に大きなものでした。日本を結節点として、ヨーロッパとアジア太平洋が結ばれることになったからです。アメリカが大西洋と太平洋とで牽制されることを意味しました。
交渉が一気に加速したのは、ドイツが日本に急接近したためです。当時のヨーロッパでは、40年6月にフランスがドイツに降伏したことで、ドイツと交戦している国はイギリスだけとなりました。そのイギリスが7月、ヒトラーからの和平を拒絶したため、ドイツは日本との同盟締結で最後の圧力をイギリスに加えようと図り、特使スターマーの派遣に至ります。
写真=1941年3月時点、ヨーロッパの戦況図
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