したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |
レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。

8木先生のスレ

954凡人:2017/10/29(日) 08:10:07 ID:m84LcSNw0
「命を落として何も語れなかった人もいる。知っている人はその人たちの分まで語らなくて、だれが語るのかと」。日本の右翼思想が理想とする権力システムは口封じがエッセンス。出家、切腹、腹きり、自殺逃避や勧告。どれもこれも、風当たりが強い拷問や虐殺に替わる、日本の権力システムを維持するために生まれたシステムと凡人は見ている。
*****
<風船爆弾の記憶>(5)体験者として 「語り部を続けたい」【群馬】
2017年10月29日 東京中日

写真=手作りの教材をつくり、風船爆弾の体験を語り継ぐ小岩さん=東京都練馬区で

 「あしたからは学校にこなくていい」。私立の女学校に通っていた小岩昌子さん(88)=東京都練馬区=は二年生の時、教師からそう言い渡された。都内の陸軍造兵廠(しょう)に動員された。

 風船爆弾の気球用原紙を和紙で貼り合わせて作った。四人一組で長方形のブリキの机にはりつき、立ちっぱなしで作業した。机には番号が振られ、その日何枚作ったか分かるように棒グラフが作られていた。枚数が少ないと、集められて注意された。

 学校と違って造兵廠は厳しかった。軍人が作業を見回り、軍隊式の号令で整列や行進をした。休憩中に読書していると、「そんな暇があるなら一枚でも作れ」と言われた。引率の担任は、控室に詰めているだけだった。

 和紙を貼り付けるこんにゃく糊(のり)で服はすぐに傷んだ。母親から「なけなしの布で仕立てたのに」と小言を言われ「何をしているのか」ときつく問いただされたが、沈黙を通した。「家族にも絶対に話すな」と念を押されていたからだ。何を作っているのか知らなかった。疑問は持たず、聞きもしなかった。

 戦後は小学校で約三十年間、教壇に立った。「あの戦争は何だったのか」。そんな疑問も持ちつつも、風船爆弾に関わったうしろめたさもあり、子どもの前で話すことは嫌だった。米国で風船爆弾で六人が亡くなっていたことを知った。「私は戦争の被害者とばかり思っていた。加害者だったかもしれないなんて」と震えたという。

 退職後、風船爆弾について本格的に調べ始めた。登戸研究所(第九陸軍技術研究所)で行われた秘密戦の研究者、自動装置の部品開発に関わった技術者…。探しては、足を運んで耳を傾けた。

 それから戦争体験を進んで話すようになった。小学校などに招かれて三十年以上、風船爆弾の「語り部」を続けている。分かりやすく説明するための手作りの教材も好評だ。子どもたちから寄せられた感想文はかなりの分量となり、大事に保管している。中学二年の生徒からは「私と同じ年ごろの子が加害者だったかもしれない。そう思わせてしまう戦争は絶対にいけない」と手紙が届いたこともあった。

 「小岩さんはなぜ、嫌だと言えなかったの?」。小学生から、そう質問をされたこともある。

 その答えは、小岩さんが風船爆弾の「語り部」を命ある限り続けようと決心した理由にも重なる。

 「戦争だから言えなかった。何を作っているのか知らなかった。だから仕方ない、ですませてしまっていいのか。命を落として何も語れなかった人もいる。知っている人はその人たちの分まで語らなくて、だれが語るのかと」 =おわり

 (この連載は大沢令が担当しました)




掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板