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闇夜の鮟鱇★
:2013/07/29(月) 12:02:41 ID:???0
●●●平家物語で気になった幾つかの問題●●●(2/7)
二つ目の問題として、芭蕉と義仲の関係があります。
松尾芭蕉が、義仲の墓に自分を葬るように遺言したという話は有名ですが、
その結果、芭蕉は実際に大津の義仲寺に葬られて、今も塚が残る分けですね。
しかし、平家物語に登場する多くの人物の中で、芭蕉が最も入れ込んだのが、
木曽義仲だったというのが、私には少し引っかかっていたのでした。
つまり、自分が一緒に葬られたいとまで望んだ相手が、
巷では人気の高い義経ではなくて、むしろ義仲だったということですね。
その点では、去年の講読を聞いていて、少し理由が分かった気がしました。
先ず一つ目に、義仲という人はかなり人情に厚い印象を受けます。
それに比べると、例えば源頼朝の場合などは信賞必罰というのか、
戦さで功績があった人は厚く遇したようですが、
戦さ下手の武将には徹底的に冷たい所がありますからね。
例えば、熊野にいた源行家は、以仁王(もちひとおう)の謀叛の時に、
反平家の令旨を持って諸国を回った人物として有名ですよね。
ですから、彼は源平争乱のそもそもの起点となった重要人物とも言えますし、
その為か自負も強かったようですが、戦場ではからしき駄目だったようです。
その結果として彼は頼朝に冷遇されて、希望する領地をもらえなかったので、
頼朝と対立した末に、甥の義仲の元に逃れる分けですね。
或いはもう一人、志田義広という人も頼朝や義仲の叔父にあたりますが、
やはり大した戦功を残せずに冷たくされ、頼朝軍と一戦まじえた後で、
これまた義仲の所に逃れて行ったようですね。
その時、義仲は頼朝と対立して逃げてきたこの二人を、
叔父として手厚くもてなすので、彼は頼朝ににらまれてしまう分けです。
その結果、頼朝軍に攻められそうになると、大切な嫡男である義高を、
敢えて人質として鎌倉に差し出す、ということまでした分けですね。
それから、倶利伽藍峠の戦いの時も、自分は平家の主力を壊滅させた後で、
別動隊の行家の事が心配になり、援軍として駆けつけたのでした。
すると案の定、戦さ下手の行家軍は散々に蹴散らされていたのですが、
ここでも彼は戦線を立て直し、面倒を見た分けですね。
他方、第二点として、そうした人情家としての側面とは別に、
義仲のもうひとつの魅力は、その茶目っ気にあるような気がします。
ある時、猫間の中納言という貴族が所用で訪ねて来たのを、
田舎料理でもてなす場面は有名ですが、その時の義仲は、
彼を『猫間殿』とは呼ばず、敢えて『猫殿』と呼び続けたんだそうです。
何かふざけているというのか、人をからかっているというのか、
余り『歴戦の勇者』という感じではありませんよね。(^^;)
京都に入った後では『義仲軍が京都の周辺で略奪を働く』というので、
今度は、平知康という貴族がそれを諫めに行く場面がありますね。
その時も義仲は、鼓判官(つづみほうがん)という彼の俗称を捕らえて、
『鼓判官というのは、たくさんの人に打たれたからか、
それとも張られたからか』と、からかったという話がありました。
結局、それで知康は腹を立てて、返事もせずに宮中へ帰ってしまい、
『義仲は馬鹿者ですぐに朝敵となりそうだから、早く追討すべきだ』
と後白河院に上奏されてしまうはめに陥る分けですね。
その結果として起こったのが、例の有名な法住寺合戦で、
ここでも義仲軍は圧勝した分けですが、しかしそのことが、
最終的には、頼朝に義仲を攻める口実を与えてしまった分けですね。
でも、先に述べた人情に厚い点や、こうした茶目っ気のある点が、
義仲という人物に特有の魅力を与えていることも事実ですよね。
芭蕉が、平家物語に登場する人物の中でも特に、義仲を慕った理由は、
案外この辺にあったのではないかと、私には思われたのでした。
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