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:
闇夜の鮟鱇★
:2012/03/30(金) 11:38:07 ID:???0
●●●書き言葉の衝撃と万葉人の責任感●●●(4/6)
そうした万葉の編者の心情に、更に分け入るとすれば、
一つ絶対に落せない要素として『書き言葉というものを、
始めて手にした人々の衝撃』ということがあると思います。
それまでは、たとえどんなに優れた歌を詠んだとしても、
ただ口承として伝えるしか無い時代が、長く続いていたわけでしょ!?
それがある時、漢字が伝来し、それを万葉仮名として用いて、
和歌を書き言葉として記録する道が突然、開けた分けですね。
例の東歌にしても、ひょっとすると東国の人が和歌を教わったのは、
万葉仮名の使い方を教わったのと同時だったのではないでしょうか。
その時、人々が感じた驚きや興奮というものは、例えば、
明治にガス灯の明かりを初めて見た人の驚きや興奮よりも、
小さかったはずはないだろうと思います。
ですから、彼らは始めて手に入れた文字というものを使って、
それ以前に蓄えられていた知識や情報を後世に伝えることに、
重大な責任を感じていたのではないかという気がします。
その点では、古事記や日本書紀にしても同様ですが、
詩歌の世界では、この万葉集が重要な役割を担ったんでしょうね。
という分けで、例の仮庵は天皇が泊まった宿と見て良いと思いますが、
もし額田王も一緒に泊まったのだとすると、天皇は女かもしれませんね。
男の天皇なら当然、妻と共寝をしますから他人は入り込めませんが、
彼女が天皇の妻として同宿した、というのも考えにくいですからね。
彼女の場合、天武天皇との愛人関係が良く知られていますが、
それは天武の皇太子時代の話ですから、話が合いません。
他方、仮にこの天皇を天智天皇とすると近江宮時代になりますが、
例の歌が熟田津の歌の前に置いてある点からすると、
それもやはり、辻褄が合わないように思います。
というのも、熟田津の歌は西暦661年に百済救援の為に、
斉明天皇が出航した時の歌とされている分けですね。
その後、663年の白村江の戦いに敗れた結果として、
都を近江に移した分けですから、例の歌を近江宮時代とすると、
時間的に逆順になってしまう分けてす。
その意味で、この歌に出てくる天皇というのは、
女帝の斉明天皇あたりと考えるのが良いような気がします。
ところで、万葉集の編纂者に関しては様々な説があるようですが、
近年は、大伴家持がその大半を編纂したという説が有力のようですね。
ならば、例の大和三山歌にあった『第二反歌は反歌として相応しくない』
とかいう注釈も、他ならぬ家持が付けたものと見るべきなんでしょうか。
最初に見つけたwikiの記述では『第一巻と第二巻が先ず最初に作られ、
第三巻以降とは区別される』とか書いてあったので、
ならば最初の二巻は相当、古いものかと思っていたんですけどね。
実は第一巻の63番に山上憶良の歌があって、それは、
704年の文武帝の時代に、唐で彼が作った望郷歌であるわけです。
いざ子ども 早く日本(やまと)へ
大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ
(さあみんな、早く日本へ帰ろう。我々が出航して来た、
大伴の御津の浜松も、我々を待ちわびているはずだ。)
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