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大石寺戒壇板本尊の歴史について
92
:
ひきこもり
:2010/12/05(日) 10:49:32
>>91
おはようございます。
深夜に書き込んだことが気になってしまい、悪夢にうなされて目を覚ましました。
『日女御前御返事』日蓮大聖人御書全集1243ページの第2段落には御本尊の相貌が
書かれてあります。1244ページの9行目から10行目には「此の御本尊全く余所に
求むる事なかれ・只我等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団にお
はしますなり」と書かれています。この御書は建治三年八月二十三日、五十六歳御作と
なっていますから、現在のグレゴリオ暦に直すと1277年九月二十九日、満五十五歳
御作となります。
また現在日蓮宗は三宝尊など本尊の形態がバラバラですね。これは『本尊問答抄』の冒
頭の「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答へて云く法華経の
題目を以て本尊とすべし」とありますから、日蓮正宗と創価学会だけが本尊の形態をき
ちんと守ってきたことになります。
93
:
問答迷人
:2010/12/05(日) 15:00:10
ひきこもりさん
引用された『日女御前御返事』は、曼荼羅無用論が書かれているのでしょうか、むしろ逆に曼荼羅供養の重要性を述べられられています。
このように、文脈を無視して、自分の都合の良い箇所を引用するのを「切り文」と言います。それでは述者の本意は無視されてしまいます。
さらに引用された箇所だけを取っても、「法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる」と有ります。この「法華経」が何を指しているのか、どう考えられますか。
文脈からは、「法華経の肝心たる妙法蓮華経の五字」の事かと思われます。つまりは、妙法五字曼荼羅です。この曼荼羅を信仰する信徒の胸中の肉団に本尊が立ち現れるのだ、という意味であり、曼荼羅の存在が大前提になっていると思われます。
>日蓮正宗と創価学会だけが本尊の形態をきちんと守ってきたことになります。
日蓮聖人がどのような本尊奉安形態を身延の草庵において実際に採用されていたかは、様々な議論の有る所です。早計には判断しかねます。
仮に百歩譲って、日蓮正宗の本尊奉安形態が日蓮聖人の流儀に叶っていたとしても、「本門戒壇の大御本尊」が日蓮聖人が建立された唯一絶対の本尊であるとか、日蓮聖人の仏法は唯授一人の血脈相承によって日蓮正宗にのみ伝えられている、等という我田引水の大嘘にまみれた日蓮正宗や創価学会に日蓮聖人の正系門家を語る資格は微塵も無いことだけは確かであると指摘しておきます。
94
:
正理会会員
:2010/12/10(金) 15:50:02
日蓮大聖人の仏法はここを見てから
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/
95
:
通行人
:2010/12/29(水) 20:09:50
偽作といっても、基本設計者は日蓮なんだから、それで効力はあるんではないですか?
本尊の価値は物体(物質)そのものではなく、日蓮が初めて明らかにした「ソフト」
そのものにあるのではないですか?
96
:
問答迷人
:2010/12/29(水) 21:12:12
通行人さん
>本尊の価値は物体(物質)そのものではなく、日蓮が初めて明らかにした「ソフト」そのものにある
全く同感です。仰る通りであると考えています。基本設計から大きく外れることが無ければ、何ら問題が無いと考えます。
基本設計から大きく外れるとは、例えば「南無妙法蓮華経」を、「南無阿弥陀仏」とするとか、です。つまり、観心本尊抄において、日蓮聖人は信仰の対象を「妙法蓮華経の五字」と特定されたわけです。これが基本設計であると考えています。
97
:
素朴な隣人
:2011/01/16(日) 16:03:27
初めて書き込みさせていただきます。
これまでの皆様の書き込みを大変興味深く読ませていただきました。また、学会員として疑問に思っていたことも、皆様の書き込みを読むにつれ、少しずつ解決しているような気がしております。
私が疑問だったのは、学会が宗門から破門された直後(日寛上人書写の御本尊を学会独自で下付する前)、67代書写の御本尊に向かって題目をあげながら、「学会が非難している人が書いた本尊には題目をあげてもよくて、他門流所蔵の大聖人書写御本尊に題目をあげるのはよくない」という論理がおかしいと思ったのです。御本仏が書いた物はだめだけど禿人(法華講の方気を悪くしたらごめんなさい。学会ではそう呼んでます)の物でも功徳がでるということがあるはずがないと思い、実は大聖人真筆御本尊のある寺にこっそり参拝したこともありました。
また、戒壇御本尊が大聖人出世の本懐であるという文証は、聖人御難事の「余は二十七年なり」だけですが、聖人御難事の執筆は戒壇御本尊建立の前ですよね。「余は二十七年なり」だけで「これから出世の本懐を遂げます」と解釈するのは飛躍しすぎですよね。ご自分の出世の本懐を具体的に書かないのは、諸御書であれだけ緻密な論理を展開しておられる大聖人らしくないと思ったのです。「ひょっとして、この御文と戒壇御本尊は関係ないのでは?」と思いながら折伏してたこともありました。
小樽問答で「戒壇の御本尊について書かれた御書がないのは、当時の門下ではそれが常識だったので書き残す必要がなかったから」と発言がありましたけど、門下の常識である「法華経こそ最大一」を大聖人は何べんも繰り返し御書で書かれていますよね。「これは大事なこと」と思われたからこそ、繰り返し書かれたのですから、戒壇御本尊についても建立後は繰り返し消息文に書かれてもおかしくないと思っていました。
ここではすっかり偽書と断定された日興跡条々事には「本門寺に懸け奉るべし」とありますが、「板本尊であれば『安置し奉るべし』ではないのかな・・・。紙幅なら『懸け奉るべし』でもおかしくないけど・・・。昔の人はあまり細かい表現を気にしないのかな。それとも、『懸け』にはいろんな意味があるのかも」と自分に言い聞かせてました。
子供たちがウルトラマンやスーパーマンに憧れるように、人間はヒーローを求めたくなるじゃないですか。また、「ヒーローはこうあってもらいたい」という願望が、ゴーダマシッダルタを32相80種好の姿に作り替えたり、鳩摩羅什の舌だけ焼け残らせたり、大聖人のお肉牙の肉だけを成長させたりする伝説を生んだのでしょう。
98
:
素朴な隣人
:2011/01/16(日) 16:06:07
宗教は自分たちの正当性を主張するために、さまざまな神秘を作ったり主張したりしがちですが、それが他者との抗争の道具になってしまうのは本当に悲しいですね。ましてや、犀角独歩さんが書かれたように、戒壇御本尊を月8回の御開扉で8000万円も儲かる道具にしてしまったのは、宗教者に内省がないからだと思います。「宗教者に内省がない」という点は学会にもあてはまることですが・・・。
神秘的なものを次々と作りだし、それを搾取の道具にしたり、人の心を縛り付けるような宗教の体質には十分注意しなければなりませんよね。
99
:
問答迷人
:2011/01/16(日) 17:22:45
素朴な隣人 さん
書き込み有難う御座います。詳細に当掲示板の書き込みを御覧戴いたこと、有り難く存じます。
僕は、日蓮聖人は徹底した合理主義者で在られたのだと拝しています。神秘的なものを徹底して排除されていると考えています。96でも書きましたが、信仰対象についての基本設計は、簡潔にして、合理的、具体的です。何しろ「妙法蓮華経の五字」に尽きるとされる訳ですから。
後世の人々が、日蓮聖人の御本意から大きく外れて、大石寺戒壇板本尊の様に色々と飾り立て、神秘化してしまいましたが、これは日蓮聖人の何ら知らぬことだと考えています。
信仰対象を「妙法蓮華経の五字」と日蓮聖人は示されます。それが一大秘法であり、上行菩薩が神力品で久遠釈尊より授与された正体であることを諸御書において繰り返し示されています。そして、この「妙法蓮華経の五字」を信じて南無妙法蓮華経と唱えることを繰り返し勧められています。
この妙法蓮華経の五字とは、言うまでも無く妙法蓮華経という経典の経題であり、そして、この妙法蓮華経という経典に何が説かれているのかと言えば、突き詰めれば、如来寿量品第十六に説かれるところの「久遠五百塵点劫に顕本した仏様」であり、それを日蓮聖人は観心の本尊抄に於いて「無始古仏」と示されています。
つまり、この「無始古仏」こそが妙法蓮華経という経典の正体であり、釈尊の悟りの正体でもあると日蓮聖人は悟られて、妙法蓮華経という経典の経題である「妙法蓮華経の五字」を信仰の対象とされたのだと考えています。
この一連の思考は極めて合理的であり、神秘主義の入り込む余地は何処にも無いのではなかろうか、と思います。
100
:
素朴な隣人
:2011/01/17(月) 01:06:56
私も問答迷人さんのお考えに全面的に賛同いたします。「法華経の題目を以て本尊とすべし」と大聖人は諸御書で繰り返し仰せになられてますし、これ以上明快な答えはありませんよね。
キリスト教でも聖骸布を科学鑑定したり古文書を研究したりして、正統派とは何か異端派とは何かを考えたり、信仰の原点を見出そうとしてるじゃないですか。板曼荼羅の科学鑑定を拒否し続けている大石寺の態度は、中世キリスト社会の姿そのままと思わざるを得ません。そう考えますと、犀角独歩さんが曼荼羅の筆跡鑑定を試みられているのはとても意義のあることだと思います。
世界ではキリスト圏とイスラム圏の争いに終止符を打とうと努力をしているというのに、「戒壇御本尊こそ大聖人の出世の本懐」という思想があるばっかりに、小さな日本の中で興門派と身延派の間で親の敵のようにいがみ合っているのですから、大聖人の立教開宗は何の為だったのだろうと思わざるを得ません。他門流を批判するエネルギーを念仏や禅宗に向ける方が、まだ大聖人の御心に適うことではないでしょうか。
また宗門と学会も、いがみ合う暇があったらもっと他にすることがあるだろうと思うんですね。今、恵まれない子供達に匿名で寄付をしている「伊達直人現象」がニュースになっているじゃないですか。これがニュースになっているのは、今の日本にも「人に喜んでもらいたい」と思っている善意の人が少なくないことに、世間が心の温もりを感じたからなんですね。
仏は時を観じ、衆生の機根に応じて法を説いて衆生を歓喜させます。本山に何十万人も結集させるのも結構ですが、聖教新聞を何部も購読させるのも結構ですが、寺を建てたり会館を建てるのも結構ですが、それが衆生の機根に応じた説法の姿であるかどうか、それで世間が心の温もりを感じるかどうか、今一度考え直す必要があると思うのです。それぞれ何十万人や何百万人も抱えている団体なのですから、協力しあう必要は無いにせよ、それぞれが社会に向かって善意の行動を起こしたら、今の日本はもっと良い国になるはずです。それこそが広宣流布の目的だったはずだと思うのです。
ここのスレッドの趣旨と関係ない書き込みをしまして、申し訳ございませんでしたm(。。)m
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