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組織活動上での嫌な経験についてお聞かせ下さい
10
:
デ
:2004/02/05(木) 13:16
幹事だということで「勘違い」している高騰とその妻にうんざり。
そいつらにおべっか使っている取り巻きの奴等にもうんざり。
口頭の一声で信者に信仰心があるかどうか決められてしまう。
んで、寺に行くことが難しい信者もいる。
長いものには巻かれろってか。
信心したかったら、口頭一派に巻かれなきゃやってけねーや。
そういう経緯で信心から遠ざかってます。
11
:
デブヤ
:2004/02/05(木) 13:17
幹事だということで「勘違い」している高騰とその妻にうんざり。
そいつらにおべっか使っている取り巻きの奴等にもうんざり。
口頭の一声で信者に信仰心があるかどうか決められてしまう。
んで、寺に行くことが難しい信者もいる。
長いものには巻かれろってか。
信心したかったら、口頭一派に巻かれなきゃやってけねーや。
そういう経緯で信心から遠ざかってます。
12
:
ウンモ
:2004/02/06(金) 06:54
>>11
勘違いしている人はどこの世の中にでもいます。要するに自分の気持ちの持ち方の問題であるとも感じます。
13
:
デブヤ
:2004/02/06(金) 12:00
>>12
レスありがとうございます。自分は元学会員で学会問題が起こった頃に、
双方の意見、見解を吟味し、唱題しながら思索に思索を重ね、結果、宗門
(ひいては大御本尊に、)に帰依していくことに決めた経緯がありました。
法華講という組織が学会とは違うのはもちろんと思っていましたが、嫉妬やら
なにやら、陰口での足のひっぱりあい、それを諌めない僧侶、それどころか陰口
に加担していることすらある。幹事やその取り巻きがそんなのばっかりで、
信心していてもいろんな人間がいるとは思いながらも、正直、幻滅したというの
が本音。信心は精神修養ではないし、道徳でもないが、精進していくなかでの
人格の高潔さというのはあるのではないかと考えていた自分が甘い人間だった
のでしょう。信心していくと、人格が卑しくなっていくものなのか?
それが知りたい。
14
:
ウンモ
:2004/02/07(土) 03:51
どこにいっても賢明で慈悲深い人もいれば、傲慢で無慈悲な人もいます。
これは僧侶だから、在家だから、という問題ではありません。
私は幻滅するような人格に出会ったら、それは成長する以前の自分の過去の姿だと考えるようにしています。
私はありがたいことに尊敬できる指導教師にめぐり合えました。
私は人格の高潔さはあると思います。ただそれはある組織に所属している、ということで自動的に身に付くものではないと思います。
役員なんて、信心のため、というより、自尊心のためにしているのかも知れません。私は役職ゲームはもう結構です。
15
:
りの
:2013/07/28(日) 12:27:24
よく「喉頭中心にまとまって行きましょう」と、他の総代さんが言うけれど
破門後の学会は、いわば喉頭に付いていった訳だから、僧侶の立場からは
「僧侶中心にまとまりましょう」と言わなければならないのではないでしょうか。
まあ言葉遊びでしょうが。
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