したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

生きる意味、人生の目的、究極的解答

2哲也:2006/10/13(金) 11:30:17 ID:u8GV8L66
「生きる意味とは?人生の目的とは?」のような質問・疑問に対して、仏は何と答えられるであろうか?

①解なし・・・「無記」説
「無記」とは・・・他より引用
「無記」(avyaakata, avyaakRta)とは、形而上学的な問題について判断を示さず沈黙を守ることである。無用な論争の弊害からのがれ、苦しみからの解放という本来の目的を見失わないためにとられた立場である。

 『マッジマ・ニカーヤ』(中部経典)第63経「小マールンキャ経」は、世界が永遠であるか否か、有限であるか否か、生命と身体は同一のものであるか否か、人は死後存在するか否かという問題について、ブッダが何も語らなかったことを「毒矢のたとえ」によって巧みに表現している。

 毒矢にいられ、苦しむ人を前にして、医者が、患者の身分、階級、弓の種類、矢の種類などについて知られない間は治療しないとしたら、その人は死ぬ。
 世界が永遠であろうとなかろうと、有限であろうとなかろうと、生命と身体が同一であろうとなかろうと、人が死後存在しようとしまいと、人は生まれ、老い、死に、嘆き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩む。

 ブッダは、現実にそれらの苦しみを止滅することを第一義の目的とした。あくまでこの目的を見失うまいとするのが「無記」の立場である。

②解あり・・・一大事因縁説
仏がこの世に出現するわけ(出世の本懐)
「出世の本懐」とは・・・他より引用
仏が世に出現した究極の本意、目的のこと。法華経方便品第二には「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもう。舎利弗(しゃりほつ)、云何(いか)なるをか諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なるを得せしめんと欲するが故に世に出現したもう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したまうと為(な)づく」と説かれている。すなわち仏の出世には、必ずその本懐があり、その本懐が一大事因縁であるとしている。・・・

つまり、これによれば、仏は衆生(人間を含めた全ての生き物)を仏の悟りに導くために存在したのであり、人間はそのために存在する(生きる)のである。これが、生きる意味であり、人生の究極的な目的、ということになる。

皆さんが、この解答を理解できるかわかりませんが、あまりに好き勝手な答えが飛び交っているようですので、ここに究極的解答(最高の真理、真実)を示しました。

これに関して何かありましたら、ご意見ください。但し、くだらない意見はご勘弁願います。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板